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zoom RSS 『カラマーゾフの兄弟 2』 ドストエフスキー

<<   作成日時 : 2007/04/12 10:52   >>

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『カラマーゾフ』を読んだ後(いや、読んでいる間も)、ぼくは何度か、恐怖を感じてあたりを見回しました。そして、すべて前と変わりがなく、この世の軸が外れていないのに気づいて、かえって意外に感じました。というのは、こんな気持がしたからです――ゾシマ長老の庵室でのカラマーゾフ親子の家族会議の場を読んだ後になお、あるいは「大審問官」を読んだ後になお、隣人の身ぐるみを剥ぐような者たちがどうして存在しているのか、キリストの業はキリストの業、実生活は実生活で二つは関係がないなどと平然と考えている主教たちがどうして存在しているのか、不思議な気持がしたのです。

I・N・クラムスコーイ(ロシアの画家)のP・M・トレチャコフ(ロシアの商人)宛の手紙
V・ネチャーエワ編 『ドストエフスキー 写真と記録』より


『カラマーゾフの兄弟 1』はこちら

(今回は長文です)
『カラマーゾフ』第二部になる。物語の展開は第一部とは打って変わってゆるやか。が、第二部には二つの重要な思想的箇所が含まれている。有名な「大審問官」と「ゾシマの教え」がそれである。キリスト教精神が前面に出てくるため、わたしには何度読んでも馴染めない部分でもある。
「人間はすべての生きとし生けるものに対して罪がある」。
第二部で頻出するフレーズである。原罪に基づいているのだろうこの思想が、どうしても、アジアの小国でキリスト教と無縁に生きてきたわたしには共感できない。

第二部はアリョーシャとスネギリョフ一家との出会いの場面がもっとも好きだ。思想小説の作家としてのドストエフスキーより、メロドラマの作者としての彼のほうが最近のわたしには好ましい。スネギリョフがアリョーシャに、一家の窮状と息子への愛情を吐露する第四編 7は、何度読んでも涙腺が緩んでしまう。イリューシャ、イリューシェチカ、なんていとおしい子だろう。


「大審問官」についてはわたしごときがどうこう書いても仕方ないし、これはこういう話です、としか言いようもない。人間は自由を望むが、大半の人間は弱さから自由に耐えられない。それならばどうしたらいい? とそういうお話。聖書の知識がないときついと思うので、初読の方は巻末の「読書ガイド」を先にご覧下さい。「ルカによる福音書」の悪魔の三つの誘惑の場面が掲載されています。

わたしとしては「大審問官」の朗読の直前に、イワンがアリョーシャに語る児童虐待についての話のほうが興味深い。もし、全世界に完全な調和をもたらすためなら、一人の子どもを犠牲にしても構わないのか。その子の涙の上に完全な世界を建設し、「ああよかった。これで救われた!」と胡坐をかいて愉快に笑うことができるのか。わたしには「大審問官」よりもこちらのほうがずっと腹にこたえる問いである。
2004年に北オセチア共和国ベスラン市で起きたベスラン学校占拠事件を覚えている方は多いだろう。子どもを含めた多くの方が犠牲になった凄惨な事件だった。わたしは夜のテレビ報道を見ながら、もしこの事件をドストエフスキーが見たら何と思っただろう、とふと思ったのだった。べつにわたしは当時も今も、ドストエフスキーのさほど熱心な読者ではない。けれど、そのとき真っ先にそんな疑問が頭をかすめ、次いでこのイワンの「反逆」の場面を思ったのだった。今も忘れられない。

イワンについてはもうひとつ触れておきたい。以下、ネタバレを含みます。『カラマーゾフ』未読の方はご遠慮下さい。
アリョーシャはエピローグでこんなことを言う。「幸福な思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、そのひとはその後一生救われるだろう。もし思い出がたったひとつしかなかったとしても、その思い出がいつか彼を悪から救ってくれるだろう」と(すみません、うろ覚えです)。似たことが第六編 2−bでゾシマの口からも語られる。
わたしはこれをドストエフスキーの信仰告白なのかな、と勝手に受けとっている。ここでアリョーシャ(=ゾシマ)の口から語られるのは、もはや宗教による救いではなくて、人間による、人生そのものによる救い――今を生きることが未来の彼を救済するという思想である。ドストエフスキーは晩年になって、キリスト教を超越したのだろうか。

アリョーシャには、幼い頃に亡くなった母の思い出がある。ドミートリーには「くるみ400グラム」の思い出がある。ではイワンには? イワンにも「幸福な思い出」はあった。第五編 3で彼は弟にこう語る。
「サクランボのジャムはどうだ? この店に置いてあるんだ。覚えてるだろ。おまえがまだ小さくてポレーノフの家にいたころ、サクランボのジャムが好きだったよな?」
「おれはなにもかも覚えているぞ、アリョーシャ、十一になる前のおまえをな」
『カラマーゾフの兄弟』は作者の計画では二つの小説になるはずだったが、作者の死によってひとつしか書かれなかった(さらにいえば後期の長編群は『偉大なる罪人の生涯』という大長編の構想から生れたものらしいです)。三人のこの「幸福な思い出」が後編ではどのように彼らを救うことになったのか、あるいは救いとなり得なかったのか、想像してみるのも楽しい。


「ゾシマの教え」はゾシマの言葉をアリョーシャが編纂したもので、亀山さんも指摘しているとおりゾシマの思想というよりアリョーシャの思想といったほうがよいだろう。ここでも「自由」という語が出てくるのは、イワンの「大審問官」への反論になっているのだろうか。ゾシマの説教よりは彼の若いころの遍歴についての箇所のほうが面白く読めるのは、わたしが思想的に薄っぺらい読者だから。
ここには『カラマーゾフ』全編を通じてもっとも美しい文章の一つがある。
若い私の兄は、小鳥たちにまで許しをもとめた。その許しは一見、無意味なものに思えるかもしれないが、それこそはまさに真理なのだ。なぜならすべては大海のようなもので、つねに流れ、触れ合っているので、その一端に触れれば、世界の別の端でそれがこだまするからだ。



亀山郁夫さんのブログ「cafe MAYAKOVSKY」に「一時間に二枚以上はどうやっても訳せない」とあります。たいへんな仕事です。飛ばし読みは許されません。ドストエフスキーにというより亀山さんに失礼になります(!)。この新訳は平明な「今、息をしている言葉で」訳されていてそれが物凄い魅力なのですが、二巻まで読んでみて思ったのは、読みやすい新訳は多くのものを得たが、失われたものもあるのではないか、ということ。クセがないために、すらすらと先へ進んでしまう。突っかかるということがあまりない。スネギリョフの話にしてもイワンの話にしても若いゾシマを訪ねてきた客の話にしても、原卓也訳のときほど心にひっかからなかったのが自分でも不思議でならない。これから先、『カラマーゾフ』といえば亀山訳がスタンダードになると思うけれど、岩波の米川訳、新潮の原訳がもしなくなってしまうようなことがあるとすれば、それは不幸だと思う。選択肢は多くあったほうがよいだろう。

巻末の「読書ガイド」が充実しています。小説中の貨幣価値についての言及があります。ミーチャがこだわっている3000ルーブルは現在の貨幣価値にするとどのくらいでしょう? 知りたいひとはぜひ本書を。
びっくりしたのは「イワンと『ファウスト』」という箇所。「大審問官」の話をした後、アリョーシャと別れたイワンの歩き方は、ゲーテの『ファウスト』のアイツから来ているのではないか、という指摘で、ここを読んだときは鳥肌が立ちました。そうか、これはもうひとつの「誘惑」の場面だったのか! と。亀山郁夫さんって、ほんと凄い方ですね。このひとによる『カラマーゾフ』が読めることに感謝しなくてはいけません。小鳥に感謝しようと思います。
(光文社古典新訳文庫)

『カラマーゾフの兄弟 3』はこちら


4334751172カラマーゾフの兄弟2
ドストエフスキー 亀山 郁夫
光文社 2006-11-09

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内 容 ニックネーム/日時
ドストエフスキーの正体
 
 宇宙情報によれば:
 http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/64.html
たつまき
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2009/06/27 03:48

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