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zoom RSS 『カラマーゾフの兄弟 3』 ドストエフスキー

<<   作成日時 : 2007/04/21 11:02   >>

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ドストエフスキー文学はいわゆる教養主義的文学ではない。それは人間の不安や苦痛という普遍的で具体的な事実に根ざし、個々の人間の生存の現実と直接深くかかわっている文学なのである。ドストエフスキーの持つ現代性の核心はここにある。

中村健之介 『ドストエフスキー人物事典』


『カラマーゾフの兄弟 1』はこちら
『カラマーゾフの兄弟 2』はこちら

第二部では出番のなかったミーチャが大暴れする第三部。野蛮さと高潔さを併せ持った複雑怪奇なこの長男の暴走するエネルギーが、物語をクライマックスへ向けて力強く牽引していく。

第三部はゾシマの死から始まる。その亡骸に起こった「異変」が、彼を父のように慕っていたアリョーシャに衝撃を与える。亡き師の言葉に従い、アリョーシャは修道院を出て、俗界へと戻る。
一方ミーチャは、3000ルーブルを手に入れるため東奔西走する。第三部の中盤以降は、とにかくこの男の独壇場。度外れに愚かで滑稽でありながら、同時に信じられないほど感じやすく気高いこのミーチャの活躍(?)によって小説は一気に加速する。そして、フョードル殺害事件と容疑者ミーチャの連行。全四部のうち、動きという面から見ればいちばん面白いのがこの第三部かもしれない。ひとたび読み始めたら止まらない疾走感。

ミーチャは大きい。小説の登場人物とはとても思えないほどの存在感がある。崇高なもの、美しいものを愛する心を持ちながら、信じられないほど愚かで破廉恥。驚嘆するのは、この二つのかけ離れた特性が矛盾なしに彼の中に共存している点だ。<猟犬>やホフラコーワ夫人とミーチャのやりとりなど、もう滅茶苦茶である。彼の愚かさがまるごと剥き出しになっている。かと思えば、ペルホーチンや御者アンドレイとの会話の中にはこの人物の心のやさしさ、大きさのようなものが垣間見えたりしてほろりとさせられる。これが文字で書かれただけの存在だろうか。生身の人間と同等か、もしかするとそれ以上に生々しい、リアルな存在感をもっている。彼にはただ圧倒される。

中村健之介さんは、冒頭に引用した本の中で、ミーチャについてこんなふうに書いている。
ところが、そうであるのに、不思議なことにドミートリーは、エゴイスチックで欲深な無頼という印象を私たちに与えない。
ドミートリーは、怒りや喜びや悲しみや感謝の感情に正直に自分をゆだねて生きている。ドミートリーには、自分の生存の弁解や自己隠蔽ができないのである。
だから、何度も痛い目に遭っても、ドミートリーの感情は、わが身の安全のことだけで悩み苦しんでいる人のように矮小化することがない。いまは自分のことで苦しんでいるが、それがいつかはみんなのためにも苦しむ大きな心の働きの前ぶれであるかのように感じられる。長老ゾシマはそのことを予感したから、若輩のドミートリーの前にひざまずいたのである。


アリョーシャがガリラヤのカナのヴィジョンに啓示を受けたように、ミーチャもまたヴィジョンを見る。それが終り近くの「餓鬼」の場面で、わたしが『カラマーゾフ』のなかでたぶんいちばん多く読み返してきた箇所でもある(ほかに、ゾシマの回想や、弁護士フェチュコーウィチの最後の弁論の場面も何度読んでも胸が熱くなります)。この場面を、第二部の、イワンがアリョーシャに聞かせた長い話と並べて読むと、長男と次男の違いがよく理解できる気がする。わたしには、この二人は同じ問いを共有しているように思えるから。「なぜ、世界はこうなのか?」という問いを。

第二部でイワンは、「神ではなく、神の創ったこの世界を認めない」という。そして、いたいけな子どもが不条理に殺される現実を挙げ、続いて「大審問官」の劇詩を弟に話し出す。
ミーチャはというと「餓鬼」の夢を見る。餓鬼は村ごと焼けだされ、乳も枯れてしまった母親に抱かれながら、寒さに震えて泣いている。「おべべも凍っちまって」いるから暖まらない。それを見ればミーチャは問わずにいられない。「教えてくれ、どうしてああやって、焼け出された母親たちが立っているのか、どうしてみんな貧しいのか、どうして餓鬼はあわれなのか、どうして草原は空っぽなのか、どうして女たちは抱き合って口づけしないのか、どうして喜びの歌を歌わないのか、どうして、黒い不幸で、ああも黒くなっちまったのか、どうして餓鬼に、乳を飲ませてやれないのか?」
そして彼はこう決意する。
これ以上、子どもが泣いたりすることがないように、乳もすっかり干上がった母親が泣かないように、いまこの瞬間から、だれひとり涙を流すことがないように、たとえなにがあろうと、一刻の猶予もなく、カラマーゾフ式の無鉄砲さにまかせて、いますぐ、いますぐ、それができるように、全力で何かをしてあげたいと思っている。

「なぜ、世界はこうなのか?」
同じ問いなのに、それに対する態度は長男と次男ではずいぶん違う。長男はいますぐ何かを、何でもいいから何かをしてあげたい、と思う(まさに「みんなのために苦しむ大きな心の働き」である)。次男は、この世界の欺瞞を暴く話をするだけで終る。行動にはならない。とくに「大審問官」については、「しゃかりきになって考えた」と言いつつ、それはただ頭の中だけのことで紙に書いてさえいない。紙に書くことも行動といえるのに、それさえイワンはしていないのだ。そして、誰かに話して聞かせるのもアリョーシャが最初だという。話し終えれば、「もうこの話はしないでくれ」という。
ミーチャは行動しようとする。イワンはそうではない。フョードル殺しにもいえることだが、彼は消極的に世界と関わろうとする。ミーチャやアリョーシャと、そこが違う。『悪霊』の中の誰かの台詞に「紙でできた人間」というのがあったが、イワンもその延長線上にいるようなところがある。
どんな立派な思想も、それが行われないなら無いに等しい。そして行動とはただ身体を動かすことだけを指さない。イワンには、部屋の隅から世界を窺う、地下室の住人めいたところがありはしないか。

小説は、グルーシェニカの心を手に入れたのもつかの間、フョードル殺しの嫌疑をかけられたミーチャが警察に曳かれていくところで終る。このあとの第四部は、アリョーシャの活躍、イワンの暗躍、スメルジャコフの告白、ミーチャの公判が描かれる。
亀山郁夫 訳(古典新訳文庫)

4334751237カラマーゾフの兄弟3
ドストエフスキー 亀山 郁夫
光文社 2007-02-08

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