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zoom RSS 『ドン・キホーテ 前篇』 セルバンテス

<<   作成日時 : 2007/05/05 00:33   >>

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この作り話よりも深刻で力強いものは、世界中どこにもない。今のところこれが、人類の思想の最後の、最大の言葉だ。人間の表現し得た最も苦いアイロニーだ。もしも地上の生活が終わって、あの世かどこかで、“どうだ、地上の生活とはどういうものか、分かったか? 地上の生活について結論を下すと、どうなるか?”と尋ねられたならば、人間は黙って『ドン・キホーテ』を差し出してよいだろう。
“これが人生についての私の結論です。そうだからといって私を咎めることができますか?”と……

フョードル・ドストエフスキー



未だ前篇のみながら、このたびようやく読んだ。本作はすべての小説の原点にして頂点ともいわれる400年前のスペインの小説で、古典中の古典だが読みにくさはそれほどない。小説の形式は今の時代の読者から見てもなかなか前衛的と思わされる。狂気の騎士ドン・キホーテの冒険物語という主筋の合間に、本編とは無関係なエピソードが長々と割り込んでくるあたりが、この小説が「近代小説の元祖」と呼ばれる理由のひとつでもあるのだろう。

この小説の内容はすでにあまりにも有名だ。読んだことがない人間でも知っている。昼も夜もぶっ続けで騎士道物語を読み耽ったあまり頭がおかしくなり現実と空想の区別がつかなくなった初老の男が、痩せ馬ロシナンテと従者サンチョ・パンサを従えて悪を懲らしめる遍歴の旅に出るも、道中、正気の人々との間に様々なトラブルを引き起こす、というもの。風車を巨人と思い込んで突撃する場面がもっとも知られているか。『ドン・キホーテ』というと大抵は風車の話が出てくる気がする。

実際に読んでみるとずいぶん思っていたのと違っていて意外だった。まず、思いのほかドン・キホーテは旅をしていない。もっと各地を転々とするのかと思いきや、それほど故郷の村から離れたところまで旅に出てはいないのだ。それにも関わらず前篇のみで上下二分冊という分量なのは、とにかくこの小説の登場人物たちがみな饒舌だからだ。はじめてドストエフスキーを読んだとき、ろくに食事もせずにえんえん哲学談義を続ける登場人物たちが異様に思えたものだが、『ドン・キホーテ』の登場人物たちもまあよく喋る。しかも、言い回しが勿体ぶっていたり、前置きが長かったりする。加えて、先にもふれたが、本編と関係ない話が劇中劇的に挿入されている。「小説『藪を突っついて蛇を出した男』」、「アルジェより帰還せる捕虜の回想」などは、けっこうな分量ながら本編の展開とはほとんど無関係。こういうところが妙といえば妙だが面白いとも思う。

ドン・キホーテは頭脳明晰、高潔無類の人柄だが、こと騎士道となると途端に常軌を逸してしまう滑稽な人物で、彼の狂的な言動は読み始めのうちこそ笑えたものの、だんだんと笑えなくなり、最後のほうでは悲しい気分になった。うまく表現できなくてもどかしいのだが、正気と狂気の境界はどこにあるのか、ということを考えてしまうとともに、正気の人間たちが狂気の人ドン・キホーテをなぶるのがどうにも不愉快になって、たまらなかった。とりわけ後半など、一行に騙されているのにまったく気付かず気炎を上げるドン・キホーテが哀れになる。

冒頭で引用したドストエフスキーは本書を「夢想家の悲劇」と解釈したようだが(『白夜』の作者なら当然そう解釈するでしょう)、わたしもこの見方に、たとえこの見方が今となっては古いといわれたとしても、傾いてしまう。

先日、小説について「古典には古典の機能があり、ジャンクにはジャンクの機能がある」と書いた。ホメロスとジム・トンプスンのどちらを選ぼうと(どちらともを選ぶとしても)読者の自由に決まっているが、なぜ古典を読むのか、なぜジャンクを読むのか、そもそもなぜ真実の書かれた記録ではなく、「作り話」である小説を読むのかという、「フィクションを読むこと」に関するすぐれた考察が、本編の終わり近くにある。ドン・キホーテと聖堂参事が交わす会話がそれで、聖堂参事はドン・キホーテに、下らない与太話に過ぎない騎士道物語など読まず、同じ冒険物語でも本当にあったもの、カエサルなりアレクサンドロスなりの活躍を書いたものをお読みなさいと薦める。これに対するドン・キホーテの答えは――それは本書をお読み下さい。ここを読んでいて浮んだのは、小説はたわごとの寄せ集めで、荒唐無稽の法螺話、百害あって一利なしの代物なのか、という問い。わたしにとってジュリアン・ソレルも、エンマ・ボヴァリーも、ロジオン・ラスコーリニコフも果たして本当に「存在しなかった」だろうか? いや、存在した、たしかにいた、と答えてしまいそうになるわたしも「窶れ顔の騎士」なのだろうか。

最後に翻訳について。
わたしが読んだのは新潮社の荻内勝之訳。このほかに手に入りやすいのは岩波文庫の牛島信明訳。ちょっと比べてみたら、荻内訳のほうがセンテンスが短くて読みやすく、講談調(?)のリズムのよい訳文が面白かったのでこっちにした。訳文比較については、
ドン・キホーテ翻訳比較[徳永登喜雄オンライン]
がとても参考になりました。
上のサイトの管理人様によると、荻内さんの訳は「超訳」的な箇所もあるらしい。

前篇は作品集的な傾向もある本作が、ポストモダン小説の先駆とも呼ばれる後篇にいたってどう変貌するか。ドン・キホーテ主従とともに新たなる冒険に続けて出発しようと思います。


4105044028ドン・キホーテ
セルバンテス 荻内 勝之
新潮社 2005-10-18

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