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zoom RSS 『1リットルの涙』 木藤亜也

<<   作成日時 : 2007/06/29 20:58   >>

驚いた ブログ気持玉 2 / トラックバック 1 / コメント 5

日記を読むことには、他人の生活を覗き見る後ろめたさがつきまとう。
高野悦子『二十歳の原点』、大島みち子『若きいのちの日記』、塩瀬信子『生命ある日に』、『ユキの日記 病める少女の二十年』、そして本書など、わたしはとくに異性である女性の日記を興味をもって読んできた(やらしいと言わないで…)。

女性の書いた日記ならネット上にいくらでもある。にも関わらず、それらをあまり読む気にならないのは不思議で、それはなぜか少し考えてみた。ネット上の日記は、あらかじめ他者に読まれることを前提に書かれている。そこが違うのかと思ったが、たとえば闘病生活の間に書かれた日記本(便宜上こう表記します)もまた、他者の視線を意識して書かれているはずで、あまり違いはない。というか、完全に他者に読まれる可能性を排除して何かを書くなんてたぶん不可能なのではないだろうか。
愛読してきた日記本は自殺したり闘病生活を送った書き手ばかりで、この生の密度の高さが、そういった危機と無縁な書き手によってインターネットという網のなかに拡散していく日記よりもはるかに強く読む側に訴えてくるのだろうか。けれど、ネット上にだって、苦痛や不幸の中で祈るようにまた呪うようにキーを叩いて打ち出された文章もあるだろう。わたしが他人の日記のなかでとくに惹かれるのは、深刻な事態よりも何気ない日常の描写の部分にこそ多い。だから、これも違う気がする。
では文才とか、そういう抽象的なレベルに起因する表現力の差異だろうか。たしかに刊行された日記の書き手たちはみな文章力が高いと思う。でも、ネット上にはもっと文章力の高い書き手は探せばいくらでもいるだろう。これも違う。

結局は、日記本の場合は上に挙げた要素+αが複合的に作用しているのかもしれない。しかし、こうやって分析めいたことをすればするほど、空しい気持になるのはなぜだろう。どんどん対象から離れていく気がするのはなぜだろう。違和感が募るのはなぜだろう。このことについてオースターが『孤独の発明』に何か書いていた記憶があるが、忘れた。


例によって長々と書いてしまいました。読んだ本の感想を書くだけのブログなのに…。
本書については説明は不要でしょう。映画になり、またTVドラマにもなりました。脊髄小脳変性症という難病に冒された木藤亜也さんが、まだ健康だった中学生のころから、やがて発症し、病状が悪化して手が不自由になる直前まで書いていた日記を、お母様がまとめたものです。

はじめは歩行がふらつくだけだったのが、次第に歩行が困難になり、舌がうまく動かせなくなり、入院して、病院のベッドの上で過ごす時間が多くなっていく。その過程で、幾度となく「病気に負けるものか、頑張るぞ」という希望と、少しずつ体の自由が奪われていくことへの絶望との間で揺れる亜也さん。その一文一文をどんな気持で書いたのだろうと想像する。書かれた言葉の向こうに、どれだけ書けなかった思いがあったのか、と。
話せないわたしは短く、
「ア・リ・ガ・ト」
とだけしか表現できないけど、本当は、もっともっとたくさんの言葉で嬉しい気持を伝えたい。


最後まで病気と向き合い続けた彼女が立派なのはいうまでもないが、彼女と同じくらいお母様も本当に立派な方だ。
私は、彼女が泣いた時は一緒に泣いた。
転んだ時も起こしてやりながら一緒に悲しんだ。
そして動けなくなり、ひんやりした廊下を這って動くようになった時も、テンポを合わせて彼女の後ろから一緒に這った。
子供の前では涙を見せまいなどと立派な態度はとれなかった。
亜也の苦しみも辛さも痛い程わかるから、それが自然の形であり母親の“姿”だと思った。しかし、大人として、親として他の健康な弟妹と差別はしなかった。
病気だから仕方がないという言葉は極力口にせず、身体障害者として無理なこと以外は、きちんとやっていくよう小言もよく言った。違ったことは、病気が故に一つ余分な荷物を背負っていること、それを一緒に背負ってやらねばならなかっただけである。

「あとがき」より



ノーモア ヒロシマ・ナガサキ』のときに少しふれたけれど、わたしは強烈な事実を前にして、「泣いた」とか「感動した」とか言うこと/言う人に強い違和感をもっていた。この涙腺の弱いわたしが! 上の記事にある「わたしなんかが泣くのはこの人たちに対して失礼になると思って」という文章の「失礼」は感覚としては「冒涜」に近い。なぜこう感じるのだろうとずっともやもやしていた。
この違和感が、先日読んだ『ブラスト公論』で言語化されていて、ようやく胸がすっとした(以下の引用は「泣くこと」についての対談の箇所です)。
高橋 本でもさ、戦争に行った人が最後に母親に宛てた手紙を集めたのとか人気あるよね。
古川 でもそれで泣くってことは、それで笑うのと同じぐらい道徳的にどうか?ってことだと思うよ。
宇多丸 笑いごとじゃない!って言い方あるけど……泣きごとじゃない! みたいな。


「泣きごとじゃない」。そう、わたしの感覚はまさにそれだったのだ。人の一生を「感動した」だの「泣けた」だのといって安易に消化することへの不快感と、人間一人の命は他人を感動させ、泣いてもらうためにあるのではないのだ、という当然の理解と。でも同情から泣きたくなる気持もあって、そのズレに悶々としていたのだろう。亜也さんの人生は泣きごとじゃない。そう心して読むべきで、これは感性の問題ではなくてモラルの問題だ。

…などと固いことを言いつつ、本書でいちばん印象的なのは闘病について書かれた部分よりも、女の子の気持が書いてある部分なのだった。病が悪化しつつあった16歳のとき、家族と一緒にショッピングセンターへ買い物に行った日の日記のなんという愛らしさ。
愛用のポシェットを首からかけて、妹の押す車椅子にドカッと乗って、衣類売場をゆっくり、キョロキョロしながら押してもらった。
わたしにとっては、すべて珍しい物ばかり。
きれいなスカートがあった。はいてみたい。いつも這うので、膝が痛いためズボンばかりのわたしの憧れだ。勇気をだして、指さしました。
「一枚あってもいいね。だんだん暖かくなるもんね」
と、母は買ってくれた。
すごく嬉しかった。花柄のプリント地のスカートに、白いレースのブラウスを着て、スィーと立ったら、みんなは可愛いねっと言ってくれるかしら。一度でいいから、そう言われてみたい。

亜也さんは昭和63年に他界された。が、この本の副題が「難病と闘い続ける少女 亜也の日記」と、過去形ではなく現在形で書かれていることに、読者は注意していい。
(幻冬舎文庫)

43444061091リットルの涙―難病と闘い続ける少女亜也の日記
木藤 亜也
幻冬舎 2005-02

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関連書籍として。
4101183015二十歳の原点
高野 悦子
新潮社 2000

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4479300112若きいのちの日記―「愛と死をみつめて」の記録
大島 みち子
大和書房 2006-03

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4401619951ブラスト公論―誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない
宇多丸; 高橋 芳朗; 郷原 紀幸; 前原 猛; 古川 耕
シンコーミュージックエンタテイメント 2006-03-01

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1リットルの涙 木藤亜也
1リットルの涙を見ました。。。木藤亜也自身の物語だそうです。 ...続きを見る
瓦版Blog
2007/08/28 13:55

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
感動的な本や映画で泣くのが好きな人は多いですね。私は、友人から借りた本を読んでも泣かなかったといったら「心がない」と言われたことがあります。でもそれは違うと思う。私の場合は『レ・ミゼラブル』で後にも先にもないくらい号泣してしまって以来、他の本では泣きようがなくなったという事情もあるのですが・・  内容が自分自身の痛みと重なり合って、きりきりするような共感を覚えたときは、ふっと涙腺が緩んでくることもあります。けれどそれ以外の単に感動的な話や、逆に事実が重すぎて私には背負いきれないような時には、前者で泣くのは感情の安売りという気がするし、後者では泣くことで事実が軽くなってしまう感じがします。  今、V.E.フランクルの『夜と霧』を読んでいますが、とても“泣きごとじゃ”ないです。ナチスの強制収容所の話なのですが、これに限らず私は難民の子供のドキュメンタリーなどを見ても涙は滅多に出てきません。一人の子供の苦しみの後ろにはずっとずっと多くの人の不幸や、社会の歪みや、巡り巡って日本に暮らす私の側の原因もあるのかも知れないということを考えると、とても泣けなくなってしまうのです。
ポトフ
2007/07/03 02:06
(すみません、続きです。)

だからといって何の行動も起こしてはいないのですが、安易にならずに考えたいというのがせめてもの私の良心です。
「心がない」のではなくて、その話の重さを自分の心に照らしてきちんと測りたいからこそ、感動だけでは済まない何かを感じるからこそ、泣かなかったのだと、今なら説明できるかもしれません。
もっとも、人の痛みを自分のことのように感じられたらそれはすごく尊いことです。体験が重なり合うならば、なおさら尊重されるべき感情だと思います。
でもね、そうでないなら・・・と、何だか繰り返しになってしまうのでやめます。

2回目のコメントで随分長々と偉そうに書いてしまいました・・でもepiさんの真摯な紹介文に触発されたのだから、仕方ない(^_^;)
ポトフ
2007/07/03 02:08
>ポトフさん

お返事の前に、いまわたしがモニタの前でどんなに嬉しい気持でいるかポトフさんに伝わったら、と思っています。わたしのいいたいこと以上を書いてくださいました。ありがとうございます。

「泣ける」ということがほかの価値より上にあるのかな、という違和感があります。泣ける映画、本、歌。「みんなそんなに泣きたいの?」と不思議になります。結果泣くのは自然ですが、泣くことを目当てにメディアにふれるのは違うのではないか、と。泣くことはきっと感情のデトックスなのでしょうね。

>感情の安売り
>泣くことで事実が軽くなってしまう

まさにそのとおりだと思います。キャパシティを超える衝撃や感動を受けたとき、人間は沈黙させられます。涙も言葉も出ないくらい圧倒されます。これに対して、泣くことで消化できるのはパターンに則っている、いわば「安全な感動」といえるかもしれません。フィクションなら、難病とか動物の死とか(わたしも弱いです)。
でも、『夜と霧』では泣くには「重すぎる」でしょう。安易に消化されてたまるか、と事実のほうで主張しています。デトックスさせないぞ、と(笑)
epi
2007/07/04 00:32
(ポトフさんへ。続きです)
ポトフさんが挙げられたドキュメンタリーのお話はとてもわかりよいお話ですね。共感についてお書きになっているのですよね。他者の苦しみは自分にも繋がっているのではないか、と。自分に無縁のことなんて世界には何一つない、最近わたしもそんな気を強くしています。

当ブログは2回目のコメントで常連様です^^
ぜひ、また遊びに来てくださいね。お待ちしています。
epi
2007/07/04 00:33
最近この本を読んだのですが、自分も同じような違和感を感じていました
この本で泣ける人はある意味幸せな人なんでしょう。「他人事」なんですから… 
rancid
2008/12/28 12:33

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