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zoom RSS 『選ばれた女』 アルベール・コーエン

<<   作成日時 : 2007/06/19 21:54   >>

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本書は、西欧でプルースト、ジョイスに比肩しうると絶賛された「世紀の傑作」。この長編小説が900ページかけて書いているのは、ユダヤの血を引く国連事務次長(国連のナンバー2)ソラルと、彼が懸想した人妻アリアーヌとの不倫の恋の顛末。つまり恋愛小説なのだけれど、このスケールが凄い。恋愛の生成からその発展、やがてこれが腐敗するまでをほとんど狂的な執拗さで描く。夢のように美しく始まった美男美女の「真実の恋」が、最後には変態的な性愛へと変質していく。

1930年代のジュネーブ。
国連の事務次長ソラルは、部下アドリアンの妻、絶世の美女アリアーヌをレセプションで一目見て気に入り、彼女をモノにしようと決意する。アリアーヌは抵抗するが、結局ソラルの手管の前に陥落。上司の権限でアドリアンを外国に出張させ、その隙に二人で「真実の恋(ベッドの上の取っ組み合い)」を堪能する。
やがてヨーロッパではナチスが台頭、ユダヤ人排斥運動が起こる。ソラルは同胞の救済活動を始めるがあえなく失敗、それが原因で国連を追放され、国籍まで剥奪される。失脚を秘密にしたままアリアーヌには夫を捨てさせ、二人は愛の逃避行へ。はじめのうちこそ一日中相手と一緒にいられる幸せに狂喜した二人だったが、時間とともに倦怠が訪れる。激しい愛が少しずつ日常に侵食されていく。もはやお互い以外には何ももっていない二人は「死に体」となった愛に必死でしがみつき、様々な狂態を演じることになる…。

愛欲に基づいた二人の「熱情の愛」は刺激がなくては生きられない。性欲が萎えたら死んでしまう。しかし、そうそういつまでも互いに欲情してはいられない。一緒の家に住み、寝ている時間以外はずっと顔を合わせているのに(ソラルは無職)出会ったばかりの熱情を長く保てるはずがない。来る日も来る日もタントのCMみたいなことをしていられますか? しかし、滑稽なまでにソラルは愛の老化を防ごうとし、この目的のために馬鹿馬鹿しい努力を重ねる。萎えかける性欲を奮い立たせるためには手段を選ばない。アリアーヌに昔の男のことをねちねち詮索することも厭わない。
愛という名の熱情は厄介な代物だ。嫉妬がなければ退屈だ。嫉妬があればあったで獣のような地獄が出来する。


物語冒頭でのソラルは「殿様」であり、アリアーヌは「女王」だった。この二人が「熱情の愛」のためにすべてを失い、失墜し、退廃のなかへ沈んでいくのを見るのは辛い。と同時に、この激しさに魅せられずにはいられない。
他の人間は、利口な人間はこっそり不倫をする。そこで、様々な障害やたまさかの逢瀬がこの上ない歓喜をもたらす。彼ら二人は狂人で、生きながら彼らの愛の中に葬られている。


ソラルとアリアーヌのほかにも魅力的なキャラクターが大勢登場する。脇役の彼らがじつに生き生きと描かれているのも本書の醍醐味のひとつ。その中でもとくに際立った存在感を示すのが、アリアーヌの夫アドリアンと彼の養母ドゥーム夫人。この二人の俗物ぶりには吐き気がするほどの愛しさを覚えた。スノビスムもここまで極まると感動するほかない。

しかしドゥーム夫人はともかく、アドリアンが去った妻に対して己の愛情を吐露する79章および80章を読むと、この人物を見る目が変るかもしれない。すべての気弱な男、気弱な男にうんざりしている彼の恋人に、ここを読んで欲しい。わたしたちは誰だって、自分にできるやり方でしかひとを愛せはしない。そのやり方がウザイといわれたら、もはや彼には愛しようがないのだ。そういうことを考えさせられる。
また、ソラルに捨てられた彼の元愛人のその後の顛末を描く哀切極まりない50章、「ユダヤ人を殲滅せよ!」と街中の壁に書かれたパリをさまようソラルの孤独と、彼の身を流れるユダヤの血へのアンビヴァレントな感情を描いた93章、94章(改行も句読点もなしで40ページ近く続く内的独白!)もじっくり味わいたい。

この小説には「未来の屍」という意味の言葉が頻出する。死を約束された存在であるわれわれ人間が他者への哀れみに基づいて愛し合う「思いやりの愛」を、コーエンは理想とする。それと対立する、誤った情熱の子である「熱情の愛」を批判するために本書は書かれた。人生は短い。人間の一生など、地球から見たら瞬きほどの束の間だ。それなのに、なぜ互いに憎みあい、殺しあう必要がある? いずれ誰もが必ず死ぬのに。コーエンの言葉には体験から生まれた重みがある。彼自らもユダヤ人であり、ナチスによる大量虐殺の目撃者でもあったのだから。
死ねば骨と灰が残るだけ。思えば、これこそ真の平等だ。大統領もホームレスもない、金持ちも貧乏人もない、男も女もない、人種もない。骨と灰、それもやがては土に還る。そこから考えろ、そこから見ろ、とコーエンは言う。そこから生まれる愛こそ本物だ、と。

国連ナンバー2のソラルと、絶世の美女アリアーヌ。誰からも一目置かれる存在であった二人なのに、彼らが辿る運命はあまりに惨めで哀れを誘う。とくにアリアーヌ。貴族の家に生れた少女。屋根裏部屋で妹と二人、ラシーヌ劇を演じていた少女。未来の結婚指輪になぞらえたカーテンの吊り手を宝箱に入れて、家の庭に埋めていた少女。その少女だった女が、グラスの破片や吸い殻の散らかった部屋で、愛する男に髪を掴まれ殴られているのを見るのは悲しい。いや、最後にはもっと悪くなる。「選ばれた女」から「可哀相な女」へ。

しかしそれこそがコーエンの企図したところなのだろう。この長大な小説を通じて、自らが唱える、哀れみに基づいた「思いやりの愛」を読者に感得させること――それこそが、小説家コーエンが抱いた野心ではなかったか。わたしはあまり読書会というものに関心はないのだけれど、メガトン級の破壊力をもつ本書に限っては、誰かと語り合いたい、ひとの意見を聞いてみたいという気持が無性にした。
このとんでもない小説を実に現代的で読みやすく、美しい日本語に翻訳してくださった訳者に感謝します。
紋田廣子 訳(国書刊行会)

(↓は野崎歓さんと中条省平さんの書評へのリンクです。『選ばれた女』が読みたくなること、うけあいです)
恋愛のすべてがここに(本よみうり堂)
狂気の愛の凄まじさ、執拗な筆致(asahi.com書評)


4336047553選ばれた女〈1〉
アルベール コーエン Albert Cohen 紋田 廣子
国書刊行会 2006-09

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4336047693選ばれた女〈2〉
アルベール コーエン Albert Cohen 紋田 廣子
国書刊行会 2006-09

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
Lydwineさんのページから、ちょっと覗きにうかがいました。はじめましてryoと申します。
「選ばれた女」そんなに面白いのですね...。900ページの長さを感じさせない...なんだかわくわくしますが..
ryo
URL
2007/06/22 22:06
>ryoさま

はじめまして。
『選ばれた女』は文学的にどうこうという以前に読み物として面白いですよ。上巻はスノッブたちの滑稽でグロテスクな生態に笑い悶えましたし、下巻の恋人たちの狂態は鬼気迫ります。そして終末は崇高ですらあります。

lydwineさまの記事にもコメントしましたが、読んでいるあいだは他のことが手につかなくなるほど面白いです。ryoさまも、よろしければぜひお読みください^^
epi
2007/06/22 23:05

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