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zoom RSS 『ゴリオ爺さん』 バルザック

<<   作成日時 : 2007/07/28 07:32   >>

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『人間喜劇』の代表的な作品のひとつ。じつはバルザックをはじめて読んだ。

舞台は19世紀半ばのパリ。
二人の主人公がいる。溺愛する二人の娘のために財産の大半を費やし、自身はひどい下宿でひっそり暮らしているゴリオ爺さん。もう一人は、ゴリオと同じ下宿で暮らす大学生のラスティニャック。
ゴリオの父性愛とラスティニャックの社交界への進出が絡み合いながら小説は展開する。

タイトルこそゴリオの名が使われているが、ラスティニャックの成長の物語として読めた。由緒はあるがさほど裕福ではない家柄の出であるラスティニャックは、立身出世するためには勉強だけではなく有力な縁故をもつことも重要であると考え、従姉のボーセアン夫人を頼って社交界に進出する。右も左もわからぬ世界で手痛い失敗をしたのち、彼はデルフィーヌという人妻と恋に落ちる。この女はゴリオの次女でもあった。ゴリオはかつて商売で大成功を収めた典型的な新興市民だったが、二人の娘の結婚に際して多額の財産を分け与え、いまは零落した身。娘たちもうわべこそ豪奢に振舞っていたが内実は貧窮しており、たびたびゴリオを訪ねては落ちぶれた彼からなお金をせびる。やがてゴリオの乏しい資産も底をつき、彼は死の床につく。二人の娘は用なしとなった父親を見捨てる。葬儀の費用にもこと欠くほどの貧しさのなかで、ゴリオは寂しく死んでいく…。

名作中の名作であるが、第四部を除いてはそれほどとも思えなかった。ラスティニャックが目撃する社交界の虚栄と欺瞞は、プルーストやアルベール・コーエンによって体験済みなので、この程度の描写では今さら驚かない。
ゴリオの父性愛は、子どもをもったこともなければ、さほど子ども好きでもないわたしにはピンとこなかった。一体ここまで娘たちを想ってばかりいられるものだろうか。それも結婚した娘たちを。ゴリオの心情を理解するには想像力が要った。ただ、彼が第四部で上げる娘たちへの愛憎入り混じった叫びには感心した。この情念の爆発の場面は見事なもの。

『バルザックがおもしろい』という本のなかで、鹿島茂さんが、「バルザックが書いたのは人間の欲望が渦巻く社会だったが、文学が人生論的な読まれ方をしてきた日本では、ロシア文学やドイツ文学ほどにバルザックが正しく理解されてきたとはいえない。現代のような欲望社会になってはじめて日本はバルザックが理解できるようになったのではないか」というようなことを書いていたのが印象に残っている(この言葉と、亀山郁夫さんの、「グローバリゼーションの時代の混沌に答えられる文学は、ロシア文学をおいてほかにない。」という言葉を対比してみるのも面白い)。
自分の欲望を知るのは難しい。ラスティニャックの欲望は出世することだが、その欲望は果たして彼自身の内部から発生した欲望だったか。外部から植え付けられた欲望ではなかったか。人間は他人の欲望と自分の欲望をしばしば取り違える。しかし彼は己が信じた道を行くことになる。

ラスティニャックは本作以降の作品にもしばしば登場する『人間喜劇』の重要人物の一人で、その末路は哀れなものらしい。デルフィーヌへの愛が冷めた後、打算から彼女の娘と結婚し、大臣にまでのぼりつめて莫大な富を得るが、やがて人生のすべてに感動を失い、パリのサロンをさまようようになるという。その姿は「彼もまた人生の真の勝利者ではなかったことを示しているように思われる」と訳者は解説に書いている。では、人生の幸福はどこに? …と、こういう読み方が人生論的、求道的な読み方といわれてしまうのかもしれない。でも、そういう読み方に自然となってしまうのだから仕方ない。

高山鉄男 訳(岩波文庫)

4003253086ゴリオ爺さん (上) (岩波文庫)
バルザック 高山 鉄男
岩波書店 1997-09

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4003253094ゴリオ爺さん (下) (岩波文庫)
バルザック 高山 鉄男
岩波書店 1997-09

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
「ゴリオ爺さん」で、印象に残っているのは、ゴリオ爺さんが死んだときに葬儀屋が来て、棺桶や葬儀について、お金の話をするところで、これって、いまの日本と同じだなあと思いました。
彼のように、娘の幸せだけが自分の幸せ的な親は、確かに今でもいます。私の周りにもそういう人はいます。幸せの対象が何であれ、それでその人が幸せだと思えるのなら、それはそれで由としなければならないでしょう。
でも、ボーヴォワールがよく書いていますが、「人は、幸せを求めて生きるのではない。幸せなんて大切なことではない」ということも、私たちは、少しでいいから考えたほうがいいのではないかなと思います。
nobis
2007/07/28 10:56
>nobisさま

こんばんは。
葬儀はお金がかかりますからね。ゆりかごから棺まで、人間として生まれたからにはすべてお金なしには済まされません。まあ、逆に考えれば、金さえ払えばあとはいいのだから気楽だという面もありますが。

>幸せの対象が何であれ

もちろんです。税金をちゃんと納め、法律を順守し、他人に迷惑をかけていないのなら人が何をしようがいいではないかと思います。

>幸せなんて大切なことではない

これは難しい問いですね…。わたしは凡人なので幸福になりたいです。自分が幸福なら他人に対しても優しく接することができますが、その反対のときはそこまで余裕がないので…。ではその幸福って何? となると明快に答えられないのですが…。なんだろう、上機嫌でいられる状態をキープすること、かな?
epi
2007/07/28 19:28
幸せって、どこにでも転がっているものだと思いますよ。奴隷でも、一日の重労働を終えて、夜寝るときに、ふと幸せを感じるといいます。お腹が空いた時、美味しいものを食べた時、面白い本を読み終えたとき、あるいは、私などは、何もなかった子供時代のことを思うと、あのころは幸せだったなどとも思います。誰でも、幸せは簡単に手に入れられますし、でも、それを持続させることはできません。大金持ちでも、貧乏でも、社会で成功した人でも、しない人でも、幸せを味わうことはできるし、どちらの幸せがより幸せなのかなどということはだれにもわからないと思います。
nobis
2007/07/30 15:58
>nobisさん

こんばんは。
そうですね。おっしゃるとおりと思います。要は物事をどう感じるかの問題でしょうね。ただ、自分もだんだん年齢を重ねてくると、ただ自分が幸せな、または満足な状態にいるというだけでなく、狭い範囲ではありますが周囲の人たちの幸せ…というか満足もある程度考えていかなければいけないのかな、という気がしています。これまで周囲に甘えて、助けられてばかりきたので、そろそろそれを別のだれかに返していく年齢になってきたのではないかなあ、と。
まあ、とくべつ大それたことが今すぐできるわけではないのですが、自分一人のことでいっぱいいっぱいだったのが、少しずつ、周りを見る余裕もできてきたような気がしてきたのです。ちょっとずつでも、これからは自分が還元していかなくちゃ、と思います。

なんだか、話がずれてしまいましたね(^^;)
epi
2007/07/30 19:34

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