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zoom RSS 『カラマーゾフ』読了をまえにおしゃべり

<<   作成日時 : 2007/07/17 00:34   >>

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昨日友人の結婚パーティーに出かけ、そこで15年ぶりに中学の同級生たちと会えたのが嬉しくて、普段なら二次会にも顔を出さずさっさと帰宅するわたしなのに、のこのこ三次会までついて行き、数年前に好きだったが振られた女の子がいたのが気まずくて彼女とは最後まで目を合わせず口もきかず(帰りぎわの「おつかれさま〜」のみ…)、深夜まで飲んですっかり酔って、今朝起きるとひどい二日酔いで苦しかったが、夕方ころにようやく楽になったので、昨日、パーティーに出かけるぎりぎり前まで読んでいた古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟4』の続きを読み出し、さっき読み終え、それから風呂に入ってきて、今これを書いているところ。このあと、最終巻の「エピローグ」を読んで寝るつもり。

どうしてこんな記事を書いているかというと理由は二つある。
ひとつは、以前に新潮文庫の原卓也訳で読んだときといくらか受ける印象の違う箇所が二箇所あったのがどうにも気になったから。まあ、あくまで個人的な印象の問題に過ぎないのでとりたててどうこうという話でもないのだが。
どちらも第12編「誤審」からで、ひとつめはゲルツェンシトゥーベ医師がミーチャの「くるみ400グラム」について証言したあと、それに感激したミーチャが叫ぶ台詞。
「いまも泣いてるよ、ドイツ人、いまも泣いてる。あんたは神の人だ!」
同じ台詞が、わたしが親しんできた原卓也訳だと以下のようになっている。
「今だって泣いていますよ、ドイツ人の先生、今も泣いているんです。あなたは神さまのような人だ!」
個人的には原訳のほうが感動的な気がする。ただ、ゲルツェンシトゥーベの「ドイツ語訛りのロシア語」の雰囲気が伝わるのは亀山訳のほう(片言っぽくなっている)。

もうひとつは第12編の最後、陪審員たちの判決が発表されたあとの傍聴人たちのやりとり。
「二十年は鉱山暮らしだな」
「最低でもねえ」
「でございましょう。お百姓たちが意地を通しましたよ」
「おれたちのミーチャもこれで一巻の終わりか!」

ここは原訳だとこうなっている。
「これで二十年は鉱山の匂いを嗅ぐことになるな」
「少なくともね」
「そう、百姓どもが意地を張ったんだよ」
「そしてドミートリイを滅ぼしたのさ!」
ここも原訳のほうが躍動感があるような気がする。個人的には。

亀山訳は平明で信じられないほどすらすら読めてしまって、こんなに楽しい『カラマーゾフ』はないと思わせてくれるのだけれど、すらすら読めてしまうからこそ、ひた走るトロイカのように突き進んでしまい細部で立ち止まることが以前より少なくなってしまった気もしないでもない。それとも、これは読み手であるわたし自身の問題だろうか。しかしそれでいいのだ、という気もする。「空間をむさぼり食いながら」疾走するミーチャの馬車のように一気に読み通す『カラマーゾフ』というのも。


で、こんな記事を書いているもうひとつの理由は、「cafe MAYAKOVSKY」でまたしても刺激的な文章を読み、困惑してしまったから。
Da80. The Castrated and Karamazov
ところで、昨日、ふとしたきっかけで、小さな発見に遭遇した。当たり前のことに、思いがけず気づくということがあるものだが、そんな体験だった。要するに、なぜ、「カラマーゾフ万歳!か」ということなのだ。フィナーレの少年たちのあの歓呼は、非常に印象深い、ドストエフスキーはおそらく考えに考えて、この場面を作り上げたにちがいない。

 それはどういうことか。

 第4部を注意深く読んだ人ならわかるように、スメルジャコフは、フョードル殺害後、去勢派たちの一派にとりまかれ、崇敬されるようになる。スコトプリゴニエフスク郊外に彼が借りている一軒屋は、内装を改めて白一色になった。

 結局、カラマーゾフとは、去勢派に対置された生命力そのもののシンボルなのである。その意味で、スメルジャコフはカラマーゾフの一族足りえない。『カラマーゾフの兄弟』は去勢派批判といってもよいのである。それは、彼のイエズス会批判ともつながってくる。では、ラスコーリニコフは何派だったのか? このあたりを考えてみる必要がありそうだ。


トルストイが性に関してストイックな考えを抱いていた(らしい)のに対して、ドストエフスキーは性を「生きるためのエネルギー」として肯定的に捉えていた、と思われる。だからこその「カラマーゾフ万歳!」か。
『カラマーゾフ』を読了したらドストエフスキーからまた少し離れようと思っていたのに、こういう文章を読むと『罪と罰』がまた読みたくなってくるから困る。

それにしても『カラマーゾフ』は読むたびに謎が現れ、興味の尽きない小説だ。なぜミーチャはアリョーシャにクロード・ベルナールについて尋ねた際、「カール・ベルナール」などと言ったのか。なぜ不信心者のスメルジャコフの部屋に、グリゴーリーが愛読していた『われらの聖人イサーク・シーリン神父の言葉』があったのか。そもそもスメルジャコフとは何者だったのか。弁護士と検事の語る正反対のスメルジャコフ像のどちらがより真実に近いのか…などなどいろいろ考えてしまう。企業の不祥事や大事件に慣れっこになっていくことの恐怖など、現代社会の問題点も読みとれるのだから、すごい小説だなあと感心する。

が、それはそれとして、こんなところでだべっていないで、そろそろ最終巻に向かわなくては。「イリューシェチカの石」のそばで、アリョーシャと子どもたちが待っている。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
わあ、epiさん、ていねいに読んでいらっしゃいますね。
付箋もいっぱい(*^^*)
こうやって並べていただくと、翻訳の違いがはっきりわかりますね。
私もどちらかというと原訳の方が好みかなあ。
でも亀山訳も読んでみたいです。
ぎんこさんのブログで知ったのですが、誤訳があったらしいですね。
http://coderachi.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/799_86f8.html
LIN
URL
2007/07/17 11:02
>LINさん

こんばんは。いえ、ていねいというか、忘れっぽい人間なのでペタペタ付箋を貼ってしまうのです。ほんとうはラインを引きたいのですけれど、読みかえすとき邪魔なんですよね…(^^;)

わたしも原訳のほうが好きです。ただし、これは正確さや好みという以前に思い入れです。何度も読み返した本なら、もう自分の一部みたいなものですから。思い入れから米川ドストを大好きな人もいますしね。「ひん曲がった微笑」とかいう語が頻発するそうです。
亀山さんの『カラマーゾフ』は、これからそういう読者をどんどん増やしていくのではないでしょうか。

>誤訳

ぜんぜん分からなかったです…。
epi
2007/07/17 19:25
ご指摘の箇所の初めのほう、「あなたは神さまのような人だ」はおそらく、かなりの意訳です。「神さまのもとにある人」のような意味だと私は思います。「神の人」は意味としては間違っていないかもしれませんが、異様ですよね。思い切りすぎだと思います。「ドイツ人」の呼び捨てもどうか。「あんた」には一応根拠があります。私はどちらの訳も持っていないのでわからないのですが、ゲルツェンシトゥーベのセリフの中に「君は感謝を忘れない若者だ」みたいなところはありませんか?このミーチャのセリフはそれと対になっているんです。医師がくだけた二人称でミーチャを呼んでいるので、ミーチャもくだけた二人称を使ったわけです。しかし「あんた」がいいかどうかは別問題ですね。原訳が感動的だと思う人が大勢でしょう。
もうひとつのほうですが、「百姓が意地を通した」という意味よりもっと重大なものを含んでいるような気がします。亀山訳ではミーチャに「おれたちの」がついているようですが、原文では百姓にも「おれたちの」がついているんです。まだよくわからないんですが・・・
coderati
2007/07/24 18:41
>coderatiさま

原書をお読みになっていらっしゃるのでしょうか。刺激的なコメントをありがとうございます。いま手元に二種類の『カラマーゾフ』を置いてこれを書いています。
「神さまのもとにある人」、う〜ん、少し難しい語です。亀山訳が「神の人」となっているのも道理でしょうか。でもcoderatiさまのおっしゃるとおりかなり大胆な訳語ですよね。ニュアンスが難しい。意訳らしい原訳のほうがわかりやすく思います。

>「君は感謝を忘れない若者だ」

はい、あります。では、ここではミーチャは親しみをこめてくだけた二人称で医師に呼びかけたということでしょうか。「あんた」も言いようによってニュアンスが異なりますよね。突き放すようにも、親しみをこめているようにも使える。翻訳って本当に難しいですねえ…。

epi
2007/07/24 21:56
>coderatiさま(続きです)

もう一箇所のほう、百姓のほうにも「おれたちの」がついているとは…これは意味深です。でも、そうならばなぜ原訳も亀山訳もそれを無視したのか。「おれたちの百姓」「おれたちのミーチャ」…となると、ここもcoderatiさまのおっしゃるとおりかなり重大なものを含んでいそうです。興奮します。今朝の読売新聞に亀山『カラマーゾフ』の記事がありまして、ドストエフスキーの原文はトルストイやチェーホフのに比べると難解なのだとか。口述筆記が文体に影響を及ぼしているのでしょうか。
epi
2007/07/24 21:59

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