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zoom RSS 『アンナ・カレーニナ』 トルストイ

<<   作成日時 : 2007/08/10 08:33   >>

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『アンナ・カレーニナ』はアンナだけの物語ではなかった。
この家庭小説では大きく分けて二つの物語が交互に語られる。俗物な夫カレーニンにうんざりして、青年将校ヴロンスキーと激しい恋に落ちる人妻アンナの物語と、穏やかな結婚生活を送るリョービンとキチイの物語と。アンナ・カレーニナは女の名だが、『アンナ・カレーニナ』はこの女の物語とは安直にいえない。

ヒロインであるアンナはなかなか小説に登場しない。上巻の130ページ近くになってようやく読者の前に姿を現わす。読んでいて本書のタイトルを忘れかけたころだ。ではそれまでは何が書かれているのか。理想主義的地主貴族リョービンと可憐なキチイの恋が書かれているのだ。

アンナの物語とリョービンの物語。同時進行する対照的なこの二つの物語を結ぶのが、アンナの兄にしてキチイの義兄(姉の夫)オブロンスキーの存在だ。このオブロンスキーの一家の描写から小説ははじまる。「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」という有名な書き出し。トルストイはこの部分を書くのに苦心し、17回も書き直したという。また本書は12回の改稿ののち完成、実に五年がかけられた。

大文豪が五年かけて書いたものを凡人が二週間で読む。しかも翻訳で。今回はこのことについて少し考えさせられた。というのも、言いにくいことなのだけれど、あんまり『アンナ・カレーニナ』が面白くなかったからなのだ…。『選ばれた女』を読んだあとではアンナの不倫の恋はぬるく思えたし、リョービンとキチイのラブラブぶりには萎えてしまうしで、なんだかなあな読書だった。長ったらしい猟や選挙の場面は退屈すぎてななめ読みしてしまったよ…。
トルストイの小説に流れる時間はとてもゆったりしていて、結局最後までこの時間の流れに自分を合わせることができなかった。だから読んでいてつねに違和感があった。わたしの読む速度と小説で流れる速度が合わない、というような感じといったらよいか。きっと本はそれぞれが読み手に異なる速度で読むことを求めている。読書とはテキストに封じ込められた時間をつかまえる行為だとしたら、今回はそれが最後までうまくいかなかったというわけ。
ただし、決してつまらなかったわけではないことは言っておく。モームはオースティンについて「読んでいて何か事件が起こるわけでもないのに、ついつい先が気になってページをめくってしまう」というようなことを書いていたが、わたしが『アンナ』に感じたのも同様のこと。『アンナ』もまたオースティンの小説同様に家庭小説なのだから、この感覚はそれほどおかしくはないだろう。べつに夢中になって読みふけったわけではない。しかし、ついだらだらと最後まで読み進めてしまう。

それにしてもなぜ『アンナ・カレーニナ』なのだろう。前にも書いたが、小説はアンナの物語とリョービンの物語が交互に展開する(便宜上、前者をアンナside、後者をリョービンsideと記述します)。
小説は全八編から成っていて、アンナsideの記述からはじまるのは第四編のみ。しかもアンナに限っては第八編には登場しない。ヒロインは遅れて登場し、早々と退場する。こんな小説があるだろうか。しかも、確認したわけではないが分量的にアンナsideとリョービンsideは差がないのではないか。
しかし、だからとってこの小説のタイトルをリョービンの名にするわけにはいかない。リョービンでは華がない。トルストイはタイトルを『二つの結婚』『二組の夫婦』などとする構想ももっていたらしいが、結局『アンナ・カレーニナ』に落ち着いた。二つの物語とはいえ、アンナsideはほとんどリョービンsideの影響を受けないのに対し、リョービンsideにはアンナsideが影を落とす(たとえばヴロンスキーの存在)。物語間の力関係はアンナsideのほうが強いといえる。だからやはりタイトルは『アンナ・カレーニナ』しかないのかもしれない。

もうひとつ夢中になれなかった理由として、登場人物に感情移入できなかったことが挙げられる。この小説に登場する人物たちはみな実に平凡で、長所があれば短所ももっている。現実にもいそうな人物たちだ。わたしはアンナにもキチイにもリョービンにも感情移入できなくてそれが困った。アンナは不倫の理由を説明するのに「わたしの中にもう一人の女がいる」なんてメロドラマめいた安っぽいことを口にするし、キチイは清純すぎてたまらないし、リョービンは典型的な非モテ精神の持ち主でイタイし…。
男性キャラクターでは世事に長けたオブロンスキー、女性キャラクターではオブロンスキーの妻ドリイや、キチイがドイツの温泉で出会うワーレンカがよかったかな。ワーレンカと、リョービンの兄コズヌイシェフの恋の顛末を描く第六編の冒頭部分は、瑣末なエピソードでありながら本書でもっとも感心した箇所。ここだけ抜き取って30ページの短編小説にしてもよさそうだ。かつて負った傷、その痛みが長く続いてもはや常態化してしまったからつい忘れて、もうすっかり癒えたものと思っていたのに、傷口に触れてみたら意外にもまだ閉じていなかったことに気づくという、そういうお話。「家へもどって、いっさいの根拠をたしかめてみたとき、コズヌイシェフは、自分の判断が誤っていたと結論した。彼はやはりマリーの思い出を裏切ることができなかったのである」。ああ、なんて甘くやさしい哀しみだろう。

小説の最後でリョービンは信仰とは少し異なったかたちで善を見出す。新生などありえない。しかしやはり新生はありえる。リョービンは自身の未熟さから脱することはできないと悟るが、しかしそう気づいた時点で未熟さの段階を一段上がっているのだ。一段上の未熟さ。そういうものがあるのではないか。「すべては己の意思にかかっている」。うん、たぶん、そのとおりだ。

木村浩 訳(新潮文庫)

4102060014アンナ・カレーニナ (上巻)
トルストイ 木村 浩
新潮社 1972-02

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4102060022アンナ・カレーニナ (中巻) (新潮文庫)
トルストイ
新潮社 1972-02

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4102060030アンナ・カレーニナ (下巻)
トルストイ 木村 浩
新潮社 1972-02

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トルストイに対する新潮文庫の罪とブックカバーの実用性
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腹筋とくびれ
2008/05/16 14:35

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
連投コメント済みません。
お読みになったんですねあんかけカレー煮。この新潮文庫の訳も相当に古い?私は中村白葉で読みました(笑)、と言っても割と最近のことです。
今イチ面白くなかったですか。キティとリョービンの文字遊びなど、ほんとに萎えました(笑)。それにしてもトルストイはどうしてあんなにアンナを追いつめるんでしょうかねぇ。だから女嫌いとか言われちゃうのでしょう。何でこれが文学史に残る?と疑問を思われた節は、是非是非ナボコフ「ロ文」をお読み下さい。恥ずかしながら私はそっちが先だったんです。だからもう刷り込み状態で読んでしまったというか。主体性のない女でございます。
おはな
2007/08/10 15:07
>おはなさん

連投大歓迎です(^^)
新潮文庫は初版が昭和47年になっています。翻訳はもう少し早くて、それが文庫化したのかもしれません。それほど古い感じはしませんでしたよ。

>今イチ面白くなかったですか
いや、まあ、わたしは『ドン・キホーテ』や『ゴリオ爺さん』のよさもよく分からない人間ですから…(^^;)(汗かいて笑ってる場合じゃないですね)名作のよいところはわたしみたいな人間が多少不満をいっても微塵もびくともしないところです。お城に素手で殴りかかるようなもので、痛い思いをするのはこっち。だから名作とは気楽に向き合えます。

>「ロ文」
機会があったら読んでみようと思います。「イワン・イリイチの死」もたしか扱っていたので、それも読んでからにしようかな。
epi
2007/08/10 23:27
こんばんは。
epiさんの文章、うなずきながら読みました。『アンナ・カレーニナ』の読み方として、全く正しいものだと思います。ちなみに私の肯定的なコメントとしては、リョービンが農民と一緒に草刈りをする場面が、とても共感を呼ぶ落ち着きを持っている、ということです。
『復活』『イワン・イリイチの死』は後回しにして、是非『戦争と平和』をお読み下さい。『アンナ』と同じように退屈な箇所はありますが(確かモームが同じようなことを言っていました)、全体を読み通した時の感動には大きなものがあると思います。
余計なお世話で申し訳ありません。トルストイの現代における評価があまりにも不当なものがあるので・・・。
Mr.マクベ
2007/08/26 18:07
>Mr.マクベさん

わ〜い、Mr.マクベさんに認められた! 
嬉しいなあ。『アンナ』にのめりこめなかったのでちょっと(ちょっとだけですが)自信を失っていたのです。元気が出ました。ありがとうございます(^^)

>リョービンが農民と一緒に草刈りをする場面
よく覚えています。へばりそうになるけどがんばるんですよね。そのあとで兄に変な顔されて。リョービンはまた「都市生活者は田舎に癒しを求めて来るが、そういう田舎の捉え方は実際にそこに住む者からすると違和感がある」みたいなことを言っていたかと思います。至極正論と思いました。

>『戦争と平和』
これはここ何年かの課題です。以前にもおすすめいただきました。読みやすいらしい新訳が出ましたし、Mr.マクベさんのプッシュとあってはもう行くしかないですね。ちなみに、ソ連版の映画(6時間? 8時間?)は見ています。ナターシャがとんでもなく美人でした。
epi
2007/08/26 20:40
>Mr.マクベさん(続きです)

>トルストイの現代における評価
よくドストエフスキーと比較されます。今となっては古典的な図式になのでしょうけれど。そして、ドストエフスキーほど重視されていない、と感じています(Amazonのレビュー数のなんという差!)。
わたしはドストエフスキーと同じくらい、この作家に惹かれます。読んでもいないくせに、です。この人の人生、とくに晩年にとても興味があるのです。これまでの代表作を否定し、夫人のヒステリーに耐え、部屋は自分で掃除し、自製のお椀で野菜スープを食べていたとか。その内面でどういう嵐が吹き荒れていたのか。知りたかったら作品を読むしかありませんね。

「迷走批評宣言」はリーダー登録して全記事を拝読しているのですが、ハイレベルすぎてコメントできず、すみません…(^^;)
epi
2007/08/26 20:42

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