epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『地下室の手記』 ドストエフスキー

<<   作成日時 : 2007/08/11 07:58   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 2

画像


加賀乙彦さんによると、ロシアの地下室というのは道路の内側の窪みにある半地下であるらしい。道路を通る人や車が高い所に見上げられるという。
この小説は、元官吏の中年男(独身)による手記の形をとっている。地下室とは彼の住むアパートのことであり、また自意識のことでもあるようだ。この主人公は役所に勤めていたが、わずかばかりの遺産が手に入ったので仕事をやめてそれで暮らしている。といっても暮らしていくのがやっとの額なので、遊びや贅沢に耽るわけにはいかない。そんな生活に飽きがきたのか、この主人公は手記を書き始める。書き出しはこう。
俺は病んでいる……ねじけた根性の男だ。人好きがしない男だ。どうやら肝臓を痛めているらしい。


手記は二部に分かれている。第一部はチェルヌィシェフスキーの小説『何をなすべきか?』で説かれた「理性的エゴイズム」理論を批判する哲学的考察になっている。「理性的エゴイズム」とは「人は私利私欲を理性的に追求することによって同時に他者への利益をも生かすことになる」という「楽観的な人間観」で、この小説は当時の急進派の若者のバイブルだった。この理論が地下室の住人には気に入らない。人間は理性的な生きものではない、時には不利と分かっていながらあえて理性に反する行動をとることがあるし、そこに人間らしさがあるのだと反論する。
利益だって! そもそも利益とは何ぞや? 人間の利益がまさにどこにあるのか、それをあえて完全に正しく定義することなど、できるだろうか? 仮に人間の利益とは、どうかすると自分にとって有利なことではなく、不利なことを望むこともあるという、ときにはまさにそんな点にこそありうるのかもしれない。いや、それどころか、当然あるに違いないのだとしたらどうする?


第二部は物語の形式になる。
過去にさかのぼり、主人公が24歳だったころのある出来事を扱う。
当時彼は役所に勤めていたが、友人と呼べるような人はおらず、学校時代の同級生たちと街で会っても挨拶もろくにしないような状態だった。ところが何を思ったか、主人公はある同級生のアパートを不意に訪問したくなり、そこで前途有望な同級生の送別会が開かれるのを知り、招かれてもいなければ親しくもないのに、まさにそのために送別会に参加する。周囲は驚き、また嫌な顔もする。主人公だって金も着ていく服もない。それでも俺は行く、様にならない、気がきかない、とわかればわかるほど行ってやる、という気になる。まさに反理性的行動に出るわけ。
このあと当然送別会で一悶着あり、主人公は売春宿へ乗り込み、そこである娼婦と出会う。この娼婦と奇妙なやりとりをするうちに、主人公は他者とのあたたかい心の通い合いを体験するのだが…。

第二部で描かれる主人公の姿は滑稽で本当に面白い。「俺は大変な夢想家だった。自分の部屋の片隅にじっと閉じ籠ったまま、三ヶ月もぶっ続けに夢想に耽ったものだ」なんて吹き出してしまった。『罪と罰』のラスコーリニコフの名言を思い出す。粗末なアパートの一室に閉じこもって寝てばかりいるラスコーリニコフに女中が尋ねる場面(以下うろ覚え)。
女中「あんた仕事しなくていいの?」
ラス「してるさ…」
女中「何の仕事しているのよ?」
ラス「考えごとさ…」
考えごとが仕事とは…。彼もまた地下室の住人なのだ。

本作に戻れば、自虐的に自分をいたぶる送別会の場面は笑いなしに読めないだろう。下男アポロンとのやりとりも同じく。いやあ、なんて愉快な小説なのか! 自意識過剰な若者が主人公の青春小説だ、これは!


翻訳について。
安岡治子さんの訳文はこのシリーズのコンセプトどおり平明でとても読みやすいもの(それでも第一部の考察は決して易しくはない)。江川卓さんによる旧訳に親しんできた者としては一人称が「ぼく」ではなく「俺」になっているところが新しく感じられる。はじめは少し違和感があったが、読み始めるとこれはこれでいいなあと思えてきた。ドストエフスキーがどこかで書いていたとおり、人間は何にでも慣れるものなのだ。ただ、娼婦の「ムカつくわ」はどうか。せめて「むかつくわ」にしてほしかった。古い小説をあまり今すぎる(?)言葉に翻訳してしまうと違和感を覚えるのはわたしだけではないだろう。
また、「訳者あとがき」でこの小説を「オタク、引きこもり」と絡めて論じるのは、ちょっと残念だった。とういか、オタクと地下室の住人がどういう関係があるのか、わたしにはよく分からないので困惑した。

ちなみに、江川卓さんによる旧訳版(新潮文庫)もとてもよいです。安岡訳以上に笑えます。それにしてもトルストイと比べると、ドストエフスキーはなんて読みやすいのだろう!


4334751296地下室の手記
ドストエフスキー 安岡 治子
光文社 2007-05-10

by G-Tools


4102010092地下室の手記
ドストエフスキー 江川 卓
新潮社 1969-12

by G-Tools


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
今日は、私が読んだ地下室の手記は江川卓さんの新潮社版でした。感想は取り留めのないことを書いてるなーと余りストーリーを覚えていないのですが、ドストエフスキーの小説は本人の生活や社会状況が悪影響を及ばしてか、あまり楽しい本とは、面白いですけど、岩波で出た罪と罰は訳者は同じ人ですがかなり楽しめます。
とかげの源五郎
URL
2007/08/30 01:47
>とかげの源五郎さん

はじめまして。
今回の新訳と江川訳を読み比べたわけではないのですが、たぶん江川訳のほうが愉快だったような気がします(言い回しなどが)。『罪と罰』は江川訳は読んだことがないのです。新潮社の工藤精一郎訳に思い入れがありすぎて…。

コメントありがとうございました。
epi
2007/08/30 12:16

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『地下室の手記』 ドストエフスキー epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる