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本を閉じたとき、(語り手ダーリーの目を通して描かれた)アレクサンドリアの街が親しげにわたしを小突いたような気がした。噂に違わぬ傑作と思う。禁煙して二月になるが最後の文章を読み終えたときには鳥肌が立ち、興奮を鎮めようと禁を破って一本だけ吸ってしまった。 小説は「ジュスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーヴ」「クレア」の四部から成る。 「ジュスティーヌ」は少女とともに島を訪れた作家志望の語り手ダーリーが、かつてアレクサンドリアで過ごした日々(主として二人の女との恋愛)を回想する。 「バルタザール」は、ダーリーの友人の老医師バルタザールによって「ジュスティーヌ」の内容が否定され、同じ出来事が別の面から語られる。 「マウントオリーヴ」は三人称となり、前二作の過去に遡る。これまでの出来事の背後にあった謎が次第に明らかになる。 「クレア」で時代は現在に戻り、空襲下のアレクサンドリアを再訪したダーリーが真実と対面する。 わたしはこの小説から二つの主題を読み取った。 一つは、作家志望の青年が成熟して自らの道を歩み始める、「芸術家小説」的な主題。 もう一つは、真実というものは相対的であって、絶対的な真実など存在しないという主題(ダレルは相対性理論に基づいてこの小説を構成したそうだが、その点については訳者が解説に述べているとおりあまり気にしなくてよいと思う。…わたしがわからなかっただけか?)。 「芸術家小説」的な主題についてはとくに書くことはなくて、これは読めばそのままそういう話になっているのがわかる。作家志望の若者が成熟してついに「むかし、あるとき……」を書き始めるまでの物語。それまでの体験が「書くこと」として結実するまでの物語。彼が書く小説は『アレクサンドリア四重奏』とよく似たものとなるのだろう。 ちなみに、訳者はかつて旧訳を翻訳したときには(40年前!)今のわたしと同じように「芸術家小説」として読んだそうだが、今回の改訳を通してそれだけの小説ではないとの認識を得た、とあとがきに書いている。 そうかあ…わたしの読みは浅いのだろうなあ。そう思ったら十年くらいを経て再読したときどう感じるか、未来への楽しみを覚えた。 もうひとつは、絶対的な真実など存在しない、という主題。同じ出来事でも視点が変われば解釈は変わる。つまり真実は相対的である、ということ。登場人物の一人、パースウォーデンは言う。 「現実とはつまり人が想像する数だけあるのだ」 これとよく似た言葉が本書では幾度も繰り返される。 マウントオリーヴ。「裸の恥知らずな真実。こいつはすばらしい文句だよ。だが、私らはいつもそのうわべだけを見て、本当の姿を見ようとはしない。おのおのの人間に自分なりの解釈があってね」 クレア。「結局のところ、わたしたちはお互いにまったく無知だった。お互いに自分で選り分けた虚構を差し出していたんだもの。きっとみんな同じように、途方もない無知のままでお互いを見ているのね」 バルタザール。「それぞれの真実には千もの動機づけが、しかもどれを取ってももっともな動機づけがあり得る。また、おのおのの真実には千の顔がある。事実と関係のない真実だってたくさんある」 ダーリー。「人生そのものが虚構なのだ――ぼくたちはみな、自分の才能と性質に応じて人生を理解し、それぞれのやり方で叙述しているのだ」 相対的な真実という言葉よりも、主観的な真実と言ったほうが親しみやすいか。誰もが「自分」というフィルターを通じて世界を認識しており、その認識の仕方がつまり「自分」なのだとも言えるだろう。 この主題がもっとも顕著に現れるのが第二部「バルタザール」。ダーリーが自分の解釈で満足していたところにバルタザールからの手紙が届く。「きみは何も知らないんだね」。そして自分を愛してくれていると思っていた女が実はそうではなかった…という残酷な現実と対面しなければならなくなる。 主観を超えた認識を得る道はつらいものとなりがちだ。弱い人間はとくにそう。彼はときに現実を歪曲し、自分に都合のいいように、傷つかずにすむように解釈しようとする。わたしたちは他人の内面を知ることはできないから、常に世界は空白だらけで現前する。そこを埋めるのが想像力であって、その解釈の仕方が個性とか性格と呼ばれるものの正体ではないのだろうか(「すべてはまわりの沈黙をどう解釈するかによるのではないだろうか」ダーリー)。だから当然行き違いもあるし、思わぬ真相にぶつかって打ちのめされることもある。人間心理を鋭く洞察したプルーストはこんなことを述べている。「私たちが他人の真実の人生を発見したとき、つまり見える世界の下にある真実の世界を見つけたときの驚きたるや、平凡な外観ながら、入ると秘宝、拷問部屋、骸骨だらけの家を訪れたときのそれに匹敵する」。至言と思う。 このような主観を超えた認識を得ることは人間として、そしてダーリーのような作家志望者にとっては作家としての成熟をもたらす。同時に、現実とは、世界とは、すべての人間が織り成すタペストリーであることもわかる。人間の数だけ世界がある、ということ。「私の世界」が彼にとっての全世界であるということ。こういう世界観はエゴイスティックだろうか。そうかもしれない。そうだとするなら、どなたかわたしを注意してください。 ダレルの文章は非常にきらびやかというか装飾的で(ときに過剰にすら思える)慣れるまで少々時間が要った。小説は1巻ごとに趣が多少異なっているので、人それぞれで好みが分かれるかもしれない。ダレルは四部を通じて一つの小説と断っているが、作者の意図を無視して(越えて?)楽しもうとする読者の習慣は非難されるに値するだろうか――。個人的には『マウントオリーヴ』のサスペンスと謎の解明に興奮したが、アレクサンドリアの夜空に輝きふるえる不動の北極星(なんて陳腐な比喩だ!)と思われたクレアに試練が降りかかる『クレア』にも引きこまれた。この巻の「貞淑なセミラ」の手術成功を祝うパーティー(?)の場面と、その後のダーリーとクレアの恋愛は本書中でもっとも美しい場面ではないか。存分に堪能した。いやあ、ダーリー、クレアのような魅力的な女性に愛されるなんて羨ましい。 小説には謎のまま語られなかった事柄も残る。その空白を埋めるのは読者の仕事だろう。あらゆる読者の終着点は「自分の頭で考えろ」だとパースウォーデンは述べている。
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読み終わりました〜。 |
りつこ URL 2007/10/31 23:38 |
>りつこさん |
epi 2007/11/01 10:29 |
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