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zoom RSS 『わすれられないおくりもの』 スーザン・バーレイ

<<   作成日時 : 2007/10/08 00:00   >>

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アランの『幸福論』に、「死者を悼むというのは美しい風習だ」といったようなことがたしか書かれていたかと思う。それに異論はないがわたしならこうもいいたい。(悲しみという感情は尊いものだが)死者について、生き残った者たちが笑顔で愉快な思い出、明るい思い出を語れたとしたらそれもまた美しいものだろう、と。わたしはわたしが死んだとき家族や友人に泣かれるよりも、彼らに笑ってほしいと思っている。陽気な思い出話に花を咲かせてほしい。
本書は、先日読んだ『小児病棟の四季』でふれられていた絵本。愛する人を失った者たちが、どうやってその悲しみを受容し、乗り越えていくかを描いている。

だれからも頼りにされているアナグマがいる。すでに老齢だ。彼は自分の死期が近いことを知っている。死ぬことは怖くない。周囲の友人たちにも、自分の死をあまり悲しまないようにと日頃からいっている。

ある夜、アナグマは暖炉のそばで手紙を書き、うとうとする。夢を見た。目の前にはどこまでも続くトンネル。彼はその向こうへと姿を消す。

翌朝になってアナグマの死が友人たちに知れわたる。彼は一通の手紙を残していた。「長いトンネルの向こうに行くよ さようなら アナグマより」。アナグマの死に、みんなが深い悲しみに沈む。

しかし季節が流れ春が訪れ、やがて悲嘆に暮れていた友人たちが少しずつアナグマの思い出を語り合うようになる。物知りだったアナグマはみんなにいろいろなことを教えてくれた。
上手な切り抜きの仕方を教えてもらったのはモグラ。
スケートを教えてもらったのはカエル。
ネクタイの結び方を教えてもらったのはキツネ。
しょうがパンの焼き方を教えてもらったのはウサギ。
みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマはひとりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してくれたのです。みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました。

それからどうなったか。
さいごの雪がきえたころ、アナグマが残してくれたもののゆたかさで、みんなの悲しみも、きえていきました。アナグマの話が出るたびに、だれかがいつも、楽しい思い出を、話すことができるようになったのです。


しょうじきに告白しよう。
深夜、この薄い絵本を読みながら嗚咽が止まらなかったと。
こんなにもあたたかく、おだやかに、そうしてやさしく、死者と残された者たちについて書いてある本はそう多くはないだろう。スーザン・バーレイの物語はいうまでもなくすばらしいが、この絵もいい。かつて東京電力のTVコマーシャルにも使われていたというが…そういえば見たことがあるようなないような。

人間の生は死によって断ち切られる。死はわたしたちを滅ぼすが、しかしわたしたちが誰かのこころに何か痕跡を残しているのなら、わたしたちは死してなお彼らとともに生き続けることができるだろう。「ちえやくふう」の伝承が親子間ではなく友人間で行われているこの物語は、独り者のわたしには慰めにもなる。

有限の生の時間のなかで何を残せるか。わたしは他人を「ゆたか」にするものを、少しでいいから残せるだろうか。悲しみを越える「ゆたかさ」を、人に贈ることはできるだろうか。気張らず、自然体で、愛情をこめて。

4566002640わすれられないおくりもの (児童図書館・絵本の部屋)
スーザン・バーレイ 小川 仁央
評論社 1986-10

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
初めまして。興味を持った記事、詠ませて頂きました。毎回の記事は凄く丁寧に書かれていて読みやすくて、
見習いたいです。
こちらの記事で、アナグマが残していった物。__自分の知っている本では 藤原 新也さんの「ディングルの入江」の中で、アイルランドのある島人が語り継いでいる’アマギン’なる人物に似ています。彼は、一生懸命働く事しか知らなかった島民の所へ来て、面白い話をし、何処かへ帰って行く。
段々と彼が来るのを待ちわびる者が多くなり、彼が姿を現さなくなってから、仕事の間にも楽しむ事を見つけた。
二つ目に、最近書いた記事の元の本で心に残っていた文「人は二度死ぬ。一度目は文字どうり息を引き取った時」、そして二度目は「その死んだ者を思い出さなくなった時」だったかな?懐かしむ人がいなくなった時もそうですね。
「子供」のいる人は一番残したいと思う対象ではないのでしょうか。自分は与えてもらう事を考える事が多いかもしれないので反省です。
長くなってしまいました。又ゆっくり寄らせて頂きます。では。
sato
2008/01/16 21:55
>satoさん

はじめまして。
それが「ちえやくふう」の伝承ではなくても、極端な話、憎しみや嫌悪の感情であっても、何かしら他人のうちに痕跡を残しているかぎりその人間は生きているといえるのかもしれません。愛のなかだけでなく、憎しみのなかにも生命はある、と。

>人は二度死ぬ

それはもしかしたら、福永武彦の小説『草の花』でしょうか。たしかこの小説にもそんなくだりがありました。まさにそうなのでしょうね。死とは忘却であり、また不在のことでもあります。誰かに忘れられているとき、その誰かにとってわたしは死んでいるのと同様なのです、きっと。

とても丁寧なコメントを、ありがとうございました^^
epi
2008/01/18 16:22

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