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zoom RSS 『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』 トルストイ

<<   作成日時 : 2007/10/24 00:00   >>

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「死」が主題の小説として「イワン・イリイチの死」を外すわけにはいかない。

19世紀のロシア。エリート裁判官のイワン・イリイチの人生は世俗的に見ればいわゆる成功者のそれだった。裕福な家庭に生まれ、法律学校を優秀な成績で卒業し、裁判官の職に就いたのちは申し分なく仕事の成果をあげ、美しい妻と結婚し、子どもをもうけ、洗練された人たちとの社交を楽しんでいる。家庭はあまり居心地のよい場所ではないけれど、職場で仕事に没頭すれば嫌なこと、面倒なことは忘れられる。それにカードがある。賭博はイワン・イリイチをもっとも興奮させる楽しみだった。

しかしある日、彼に異変が起きる。腹部に妙な痛みを感じたのだ。以来、止まない。医者に行っても原因は判然としない。そのうちイワン・イリイチの体調は悪くなり、勤めにも行けなくなり、ついには寝込んでしまう。死が彼をつかまえたのだ。

イワン・イリイチは自分の死を予感する。はじめはもちろん否定した。
「ありえない。ありえないはずのことが起こっているのだ。いったいどうしてだ? なぜこうなるのだ?」
イワン・イリイチは死とは他人に起こるものであり、自分に起こるとは思っていなかったのだ。そんなことはありえないと。しかしいまやありえないはずのことが現実となっている。

「否認」と「怒り」の段階を経たのち、イワン・イリイチは死を少しずつ受け入れはじめる。同時に、とてつもない孤独感、不安感にも襲われる。
たとえば痛みが長く続いた後など、彼がなによりも願うのは――打ち明けるのはいかにも恥ずかしいのだが――ちょうど病気の子供を哀れむように、誰かに哀れんでもらうことだった。子供をあやして慰めるように、優しく撫でて、口づけして、哀れみの涙を流してほしかったのだ。もちろんれっきとした公職にいて、ひげも白くなろうという身分の彼には、そんなことは望むべくもないのはわかっていた。だがそれでもそうしてほしかったのだ。


ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の終盤で、二人の恋人が飼っている犬ががんに冒され、医者の男が安楽死を選択する場面がある。男が注射を打つあいだ、女は犬の顔に頬を寄せ、ささやき続ける。死にゆく命を不安にさせないために。「怖がらなくてもいいのよ、怖がらなくてもいいのよ――」と。

わたしも死ぬときは誰かにそばにいてほしい。手を握っていてほしい。「優しく撫で」られながら、「怖がらなくてもいいのよ」とささやく声を聞きながら、死にたい。死なせてほしい。そう思っている。イワン・イリイチにはゲラーシムという召使が、まるで母親のように世話をしてくれる。彼はこの素朴な召使とのかかわりのなかに安らぎと満足を見出す。

世俗的な成功も、死の前には無力だった。いや、むしろ惨めさを増しただけのように思われる。イワン・イリイチの同僚たちは彼が死んだあとの人事のことばかり考えており、うわべはともかく本心では誰ひとり微塵も悲しんではいない。イワン・イリイチの葬儀より、同じ晩開かれるホイスト(カード賭博)の集まりのほうが重要なのだ。
こうして各人は、同僚の死にともなって生じるであろう異動や栄転に関する憶測をたくましくしたのだが、それとは別に、身近な知人の死という事実そのものが、それを知ったすべての人の心に、例の喜びの感情をもたらしたのだった。死んだのが他の者であって自分ではなかったという喜びを。
「いやはやあの人もご臨終か。でも俺はこうして生きているぞ」銘々そんなふうに考えたり感じたりしていたのである。

しかし死は一人の生者も見逃してはくれない。
死を忘れるな(メメント・モリ)」。この中篇小説はそう読者に訴えてやまない。


同時収録の「クロイツェル・ソナタ」は、嫉妬がもとで妻を刺し殺した中年貴族のお話。このスピート感あふれる展開はまるでドストエフスキーのよう。性欲がこれでもかと否定的に扱われ(まるで諸悪の根源のようだ!)、全面支持はできないが一面には真理が含まれていると思う。女は身を飾って男をたぶらかすことしか頭にないのだ、といったくだりはアルベール・コーエンの『選ばれた女』のなかでより詳細に、おもしろおかしく書かれている。トルストイが否定したかったのは、性欲なのか女性なのか。両方なのか。そのへんのところがよくわからない。
わたしはこれを『アンナ・カレーニナ』の別バージョンとして読んだ。カレーニンに浮気したアンナを殺す意志があればこうなっていたのではないか。「性欲の否定」という面が目立つけれども、愛情と憎悪のメカニズムや医学への否定的見解、教育問題への言及など、なかなかテーマ性に富んでいる。

トルストイ、おもしろいじゃないか。

4334751091イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
トルストイ 望月 哲男
光文社 2006-10-12

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