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zoom RSS 死を通じて生について少しは学べたのだろうかと静かに自問する十月の夜のこと

<<   作成日時 : 2007/10/31 00:00   >>

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今月は死をめぐる本をぽつぽつ読んだ。死は人間の最大の関心事のひとつではないだろうか。誰にも無縁でない。それだけに本も多い。粗く検索しただけだが死について書かれた本はかなりの数に上り、今月は読めなかったけれどいずれ読みたいと思う本はいくつもある。わたしが読んだ本なんて、砂浜の砂粒にすらたとえられないほどの少なさだ。

死と一口にいってもいろいろある。このたびは主に老衰や病死をめぐる内容が多かったけれど、自殺や殺人による死、脳死について、そしてペット(この言葉には抵抗が少しある)の死など、どれも当事者にとっては切実なものだろう。これらについても知りたいという気持は強い。

クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という小説は不思議なタイトルだ。本編中でこのタイトルについて種明かしをしている。嘘か本当かは知らないが、ドイツのことわざには「一度は数のうちに入らない」というのがあるらしい。一度は数のうちに入らないのなら、一度きりの人生というものも数のうちには入らない、わたしたちは人生を重いものと見る傾向があるけれど、実際には人生とは軽いものなのかもしれない。そういうことがたしか書かれていたかと思う(本ブログでの引用の多さからわかるとおり、これはわたしの最愛の小説のひとつです)。

人生とは、そして人間のいのちとは重いものなのか、軽いものなのか。
重い、と言い切ってそれで思考停止するのはたやすい。しかし、広い世の中、長い歴史のうちには信じられないような死に方をしたかたは大勢いて、また、わたしたちも日常生活のなかで死にかけたことが一度や二度はありはしないか。たとえば自動車を運転していて危ない体験をしたことのあるかたは多いのではないか。そう考えると死はどこにでも転がっているということ、いのちなんて脆いもの、人生なんてあっけないもの、そういうことに目を開かれる。

未来の死から現在の生を照射することで「より良き生」を生きたい。わたしが願うのはそれだ。しかし「より良き生」とはなんだろう。たぶんアリョーシャ・カラマーゾフが知っていたのだろう。あるいは『未成年』のマカール老人が。それは言葉にするなら「品のある生き方」ということになるのだろうか。


死ぬ瞬間』は各章の扉ページにタゴールの詩が引用されている。とても魅力的で『ギタンジャリ』が読みたくなる。そのなかでもひときわ眩く輝く詩があった。このような生は理想だ。こんなふうに強く生きたいと願わずにはいられない。そう、強く、生きたい。


危険から守られることを祈るのではなく、
恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。
痛みが鎮まることを祈るのではなく、
痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。
人生という戦場における盟友を求めるのではなく、
ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。
恐怖におののきながら救われることをばかりを渇望するのではなく、
ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。
成功のなかにのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、
自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じるような、
そんな人間になれますように。



今月読んだ死が主題となっている本をウィジェットでスライドショー表示してみました。


数こそ多くはないけれども、なかなか充実した読書ができた一ヶ月だったといま振り返る。

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
epiさん、こんばんは。
こんなにも大切な記事にコメントするのもなんですが、すごく共鳴しましたので。
epiさんがこうやって丁寧な批評を作っていっていること自体、「死」について分かるというか、幾分意識しているのではないでしょうか。リミットが後24時間、のような。ポジティブな素晴らしい生き方であると思います。
僕にはまねはできませんが、何か自分流に、前を向いて生きて行きたいと考えております。
Mr.マクベ
2007/11/07 20:52
>Mr.マクベさん

こんばんは。
拙記事に共鳴していただけたとのお言葉、とてもとても喜んでおります(^^)死は決してネガティヴなものではありませんね。Mr.マクベさんにコメントをいただいて確信しました。

わたしは死の自覚こそが他者への愛を生むと思えてならないのです。自分が死ぬということの自覚が連帯…とまではいいませんが、他人が困ったときには手を差し伸べる、そういうことのできるやさしい感情の源泉となるのではないかと思えてならないのです。

実際、死を意識するとやさしい気持になれます。自分の死ではなく他人の死でも、です。幼い子どもも、美しい女性も、大金を稼ぐエリートサラリーマンも、みんな最期には等しく死ぬのです。そう思うと「かなしいいとおしさ」とでも名づけたくなるような感情がこみ上げてきます。『アンナ・カレーニナ』のリョービンも「死を思うと気持が落ち着く」とたしか言っていました。なんとなくですが理解できます。死を思うと気持がすっと鎮まるんです。
わたしは実際にはだらしのない人間ですが、できるなら「死をポケットに入れて」生きたいなあと思っています。

epi
2007/11/08 05:04
>Mr,マクベさん(続きです)

>何か自分流に、前を向いて生きて行きたい
進むからには前に行きたいですよね。ときどきは振り返ったり立ちどまったりしても、前に進んでいるという実感はほしい。
各人各様の「生のスタイル」を確立することが前向きに生きるということになるのかもしれません。自分が納得できる生きかたを見つけ、それを身に付け貫くこと。他人や周囲に流される人は自分の「生のスタイル」をもっているとはいえないでしょう。

…って、えらそうなことを長々とすみません…。こんなこと書いていますけれどわたしはとても弱っちい駄目な人間なんですぅ。ああ恥ずかしい。
epi
2007/11/08 05:05

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