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zoom RSS 『アシュラ』 ジョージ秋山

<<   作成日時 : 2008/01/18 00:00   >>

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昭和十年代、この東海の寺の住職だった高僧が、支那事変の慰問に出かけた。彼は説教会場に集められた兵士に、愛国的な演説も、国民の心得も述べなかった。
彼は、「人というのは、ほっといても何れ死ぬものだ。だからいくら殺しても罪になんかなりはしない。いくらでも殺しなさい」と語った。
すると、緊張していた兵士たちの間から穏やかな笑い声と、嘆声が漏れたという。
この言葉は多くの読者を憤激させるだろう。だが私は、恐ろしく思いながらも、納得する。
彼は、兵士の罪悪感を除いてやろうとしたのではないし、救済しようと試みてもいない。たしかに兵士達は、敵が殺しても構わない存在であることを識る。だがそれは、自分達も、殺されても何の支障もない存在であると認める事だ。そして恐らく、後者の認識の方が、兵士達にとって意義深かったのではないか。
これこそが批評だ、と、今の私は思っている。
それはまず、戦争は悪だと叫ぶ、あるいは奴らを殺せと唱える思想や哲学、理想、スローガンへの批判であり、殺し殺される現実を意味ありげに見せる歴史や政治への批判である。

福田和也「批評私観」 『甘美な人生』所収



いつのまにやら復刊していたジョージ秋山の『アシュラ』は人肉を喰らってまで生きねばならぬ生のかなしみを主題としている。

物語の舞台はおそらく平安時代。大飢饉によって人々はばたばたと死んでいき、巷には累々たる屍と白骨が堆く積もりまた横たわり、人心は荒廃しきっていた。農村部では今日を生き延びるために、人々が死んだ人間の肉を喰らうのが常態化していた。
この時代に一人の赤子が生を享ける。母親に喰われかけながらも生き延びたその子どもはやがて成長し生き抜くためにひたすら人肉を喰らい、喰らうために人を平然と殺すようになっていく。言葉も満足に話せず、人を見たら襲いかかるこの少年のことを、人々は「アシュラ」と呼んだ。

アシュラは忌み嫌われ、恐れられる。一部の人間たちから、その非人間性を非難される。しかし彼を非難した人間たちのよりどころであった家族愛やまた恋愛の感情も、飢えの前ではいかに無力だったか。夫と子どもは「私が死んだら私を食べてください」と言い残した妻の肉に貪りつき、「人間として許されぬことだ」と号泣しながら、しかしそれでも露命をつなぐ。身分の格差を越え、愛する男と結ばれることを夢見ていた娘は、「愛している」と囁きはするが無力な貧しい男を捨て、嫌悪していた裕福な男のもとへ走る。

何のために生きるのか。そのような問いを無化する凄惨な生の現場の生々しさ。何のために生きるもない。死にたくないから生きるのだ。そのためなら人肉とても喰らおう。
現代の人間の掲げる倫理や規範など、こんなにも過酷な状況下では薄っぺらに見えてくる。己が生き延びるためになら、他人の命など平然と奪って顧みないアシュラの姿に、戦慄を覚えつつも同時に感嘆もする。そうまでして生きねばならないのか、という問いはここにはない。やはり生の極限状況を扱った『バトル・ロワイアル』ではゲームへの参加を拒否して自殺する者がいるのに対し、『アシュラ』にはそんな近代的な人間はいない。彼らは問わない。問いかけは読者に向かってなされるのみだ。いかなる問いか。「生に意味などあるのか」という問いだ。

物語の終盤、アシュラは似たような境遇の子どもたちの指導者的な存在となり、農村を捨て都へ向かう。その途中に、非常に印象的な場面がある。疫病によって死に絶えた村に入り、死んでいる母親の乳房に吸い付いている赤子を見捨てたあとで、空腹のあまり歩けなくなり、地面に寝そべった子どもたちの頭上を、三羽の鳥が舞う場面だ。二羽の小鳥は母鳥に仲よくまとわりつき、「チチチ…」とさえずりながら、子どもたちの上空で舞っている。それを見ていた一人が、「鳥に生まれてきたほうがよかった」というと、別の一人が「今度生まれてくるときはみみずでもいいよ おれは」と答える。そうして幸福そうに、自由そうに見える鳥たちが去っていくのを見ている子どもたちの目から、いつしか涙がとめどなく流れ出す。みなが泣いていた。ただ一人、アシュラだけを除いて。

この冷徹なアシュラも最後の場面で遭遇する人物の死に直面して、狂ったように泣かずにはいられない。極限状況でサヴァイブする人間が直面する、生きることのかなしみ。解説で島田雅彦氏は「彼(引用者注=ジョージ秋山)の作品では悪人も善人もよく泣く」と書いているとおり、この作品は(『銭ゲバ』もそうだったが)人が生きることのかなしみを扱った漫画なのだ。涙は浄化する装置であるとともに、かなしい生へ捧げられる鎮魂の祈りのようにも思える。そういえば興福寺の有名な三面六臂の阿修羅像の一対の手は合掌されていたのだった。

私の生には何の意味もない。私はいつ殺されても仕方がない。実際いつ死ぬか解らない。人を殺すかもしれないし、殺すだろう。にもかかわらず私は生きることに、あるいは己に執着し、そこに何かの意味を、温かさを、美しさを見たと思いこむ。そしてもしかしたら、「尸(しかばね)の郊原」の上に、かりそめにもそのような物がありえたかもしれない。

福田和也「批評私観」


『銭ゲバ』とともに、この名作を低価格の文庫で復刊してくれた幻冬舎に心から感謝したい。またいつ品切れるか、知れたものではないけれど。

4344407539アシュラ (上) (幻冬舎文庫 (し-20-2))
ジョージ秋山
幻冬舎 2006-02

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4344407547アシュラ (下) (幻冬舎文庫 (し-20-3))
ジョージ秋山
幻冬舎 2006-02

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4344410289銭ゲバ 上 (1) (幻冬舎文庫 し 20-4)
ジョージ秋山
幻冬舎 2007-10

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4344410297銭ゲバ 下 (3) (幻冬舎文庫 し 20-5)
ジョージ秋山
幻冬舎 2007-10

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