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zoom RSS 『美人論』 井上章一

<<   作成日時 : 2008/01/22 00:00   >>

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いわゆる美人について明治期から戦後にかけ、いかなる言説がなされてきたか、その変遷の歴史を追う一冊。はじめて知る話題が多く、時間を忘れて読み耽った。

明治期の女学校の修身(道徳)の教科書には、以下のような記述があったという。
「美人は往往、気驕り心緩みて、却つて、人間高尚の徳を失ふに至るものなきにあらず……之れに反して、醜女には、従順・謙遜・勤勉等、種種の才徳生じ易き傾あり」。
美人は堕落しやすいが、醜女はにはさまざまな「才徳」が身につくと述べている。これは『中等教科・明治女大学』という教科書のなかの「第六節・容貌」の章。いまの教育現場についてはぜんぜん知らないが自身の中学生のころを思い返すに、内容の是非は措いても容姿について教科書にこんなにストレートに書いてあるのが奇異に感じられる。
この教科書のほかにも、明治期の女子学生への教育には美人排斥論というべき論調が幅をきかせており、美人はつねに批判され、不美人は賞賛されていた(美人は性格が悪いが不美人は心がきれいだ、といったふうに)。

このような言説の背景には当時の女子たちの置かれた立場が影響していた。当時の女学校には授業参観という名目で、息子の嫁探しをしている母親たちが訪れていた。明治期にはいまと違って自由恋愛などなかったから、嫁を探す母親が女学校を訪れるのは都合がよかった。その際はとうぜん内面など知る由もないのだから、判断する材料としては容姿しかなくなる。つまり美人から片付いていくわけで、彼女たちは結婚のため学業を中途で止すので、学級が上級に進むにつれ、残るのは「貰い手」のない不美人ばかりということになる。逆にいえば、進学する女子生徒たちはみな不美人ばかりで、彼女らは世間から揶揄の対象になっていたという。
だからさきの美人排斥論は、現実の教育現場を知る教師たちが不美人な女子生徒たちに同情して採用したものと推測される。
「美人には、あまり勉強をさせない。てきとうな時期に、結婚させてしまう。学校は、そのための仲人口さえ、きくことをいとわない」。これが明治の女学校教育の現実だった。

その後、大正デモクラシー期に入った都市部では自由恋愛が解放され、身分や階級の上下に対する意識が人々から薄れる(平準化が進む)。それにともなって美人をたたく論調は力を失っていく。

こののち民主主義の戦後となるとまた変わる。美人と不美人の枠組みが消え、「すべての女性は美しい」といわれるようになる。この種のフレーズには何かしら偽善的な匂いがするが、この言説の背後にあるものを探れば商業主義に行きつく。美容業界が右肩上がりで成長し続けるためには、美人だけを相手にしていたのでは行き詰ってしまう。不美人にも美人と同様に容姿のために金をかけてほしいのだ。近い将来、美容業界は女性のみならず男性にも目をつけるようになるだろう、と著者は述べているが(単行本の初版は1991年)いまやその予想通りとなったわけで、「イケメン」は広辞苑に掲載される語になるほど一般化した。さらに少子化が進みパイが少なくなるのは目に見えているので、美容業界は高齢者や、小学生も対象にしていくだろう。というか、もうなっているのか?

昨今の「すべての女性は美しい」的な、美人平等論に違和感を覚える人は多いだろうと思う。自分もその一人だが、なぜそう思うのか、著者の分析にうなずいた。
くりかえすが、現代社会では、容姿の平等性を論じる議論が、流布している。人生論などでも、女はみな美しいとする議論を、よくみかける。
しかし、容姿の平等性を主張したいのなら、もっとほかにもいいようはあるはずだ。たとえば、女はみんな不美人だというような議論。あるいは、美人もいなければ、不美人もいない。みんなふつうだといった議論である。
この三者のなかでは、最後にあげたものが、いちばん自然であろう。なんといっても、多いのはふつうのひとだ。正規分布図をみれば、そのことは一目瞭然であろう。美人や不美人は、容姿における両極である。数は少ない。
女をみな美人だとする議論は、だから不自然なのだ。それは、すべての女を不美人だといいきるのと同じくらいに、おかしいのである。みなふつうだという議論は、これらにくらべればうなずきやすい。一億総中流という言い回しと同じくらいの妥当性は、あると思う。
だが、みなふつうだという議論にも、不自然なところはある。みな美人だといったり、みな不美人だというよりはましだが、やはりおかしいのだ。
じっさいには、美人もいれば不美人もいる。みながひとしくふつうだというようなことはありえない。
おそらく、この問題については、何をいっても不自然になるのだ。自然な平等論はありえないのである。

きわめてあたりまえのことを述べているにすぎないのだが。
ちなみに福田恒存は「醜く生まれたものが美人同様のあつかいを世間に望んではいけない」と言い切っているが(『私の幸福論』)残酷とはいえこれはこれで一面の真理ではあるだろう。

シビアな美醜の問題を歴史の流れに沿って読んでいくと、こんなにも愉快な過程があったのかと驚く。数多くの資料を渉猟し、言説の歴史を丁寧に明快に並べた著者にただただ感服。


ぜひこの続きをぜひ読みたいなあと思っていたら、続編とおぼしき『日本の女が好きである。』が今月発売されているではないか。帯?には「新・美人論」とある。これはもう読むしかない。じつによいタイミングだ。


4022640952美人論 (朝日文芸文庫)
井上 章一
朝日新聞社 1995-12

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4569696198日本の女が好きである。
井上 章一
PHP研究所 2008-01

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