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zoom RSS 『恥辱』 J・M・クッツェー

<<   作成日時 : 2008/01/26 00:00   >>

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これは恩寵の物語である。

初老の域に差しかかった男が主人公だ。名前はデヴィッド・ラウリー。52歳。二度の離婚を経験している。南アフリカはケープタウンの大学の現代文学の教授だったが、「大規模な合理化計画」によって現在はコミュニケーション学部とやらに配置換えされ、しかも准教授に降格までされてしまった。
追い討ちをかけるようにさらに不幸がラウリーを襲う。安易な気持で関係を持った女子生徒のメラニーからセクハラで訴えられ、大学を去らざるをえなくなるのだ。

無職の身となったラウリーはセーレムという田舎町へ向かう。最初の妻とのあいだに生まれた娘、ルーシーに会うために。都会暮らしをするインテリの両親とは正反対に、ルーシーはセーレムで自作農園による野菜の栽培や、天日焼きの陶器を作ってのどかに暮らしていた。しばらくは娘の家に滞在することになったラウリーは農園の仕事や、娘の知人である動物医の手伝いをして日を送る。

しかし不幸はみたびラウリーを襲う。今度はルーシーも一緒に。家に強盗が入り、ラウリーは殴られた上に頭に火を点けられて怪我をし、ルーシーはレイプされる。この事件の打撃は大きかった。そして奇妙なことに娘はわが身に起きたことをいつかは訪れるべきだった審判のようにとらえ、警察に事実を隠匿する。ラウリーは事実を話すよう娘を諭すが彼女は聞き入れない。もともとしっくりいっていなかった父娘の同居生活にはいよいよ不協和音が生じてくる。

頻発する暴力事件。ラウリーは南アフリカの現状をこう述べる。
なにかを所有するというリスク。車、靴、ひと箱のタバコ。なにもかも行きわたるほどは無い。車も、靴も、タバコも。人が多すぎ、物が少なすぎる。ここにあるものを使いまわしていくしかないのだ、誰もが一日でも幸福になれるチャンスを得るには。それが理屈だ。理屈を死守し、理屈の慰めにしがみつけ。これは人間の悪業というより、たんなる巨大な循環システムなのだ。その営みに、憐みや恐怖は無縁だ。この国では、人生をそんなふうにとらえねばならない。


ラウリーはシニカルで屈折した人物だ。小説の前半部での彼の述懐は冷ややかなものばかりだが、後半部になると変化がみられる。南アフリカで生きるとはどういうことか、動物としてではなく人間として生きるとはどういうことか、そういった根源的な問いに対する答えを模索するようになる。動物クリニックで安楽死の仕事を手伝うラウリーは、彼らの死体を袋に入れた後、移民病院の焼却炉まで車で向かい、自らの手で彼らを焼く。動物たちをゴミと一緒に焼く係員たちには任せられないからだ。「おれほど利己的な男がすすんで死んだ犬にお仕えしようとは、おかしなものだ」。ラウリーはそう独白する。自分は、馬鹿でおろかな頑固者になりつつある、とも。

小説の後半には強盗した犯人のうちの一人の再び登場する。彼をめぐってのラウリーとルーシーの衝突は非常に読み応えがある。南アフリカ独自の問題を孕んでいるというべきか。国状に疎い自分には判断のしようはないのだが、当然と思えるラウリーの主張に反発し、退けるルーシーの意見には、なにか古い日本のムラ社会的な「過剰な横の関係」を見るようで息苦しい。


冒頭に、これは恩寵の物語だと書いた。たとえ深い傷を負わされても、生きているかぎり人生は終らない。ルーシーは言うだろう。
「なにがあっても、殺されないかぎり強くなれるのよ」。
そう、おそらくはそうなのだ。そして、かつて彼を訴えたメラニーが出演する素人演劇をこっそり見に行ったラウリーに静かに恩寵が与えられる。
突如として音も無くなにかが弾け、醒めた夢のなかに転がりこんだように、さまざまなイメージが滔々と流れだす。ヨーロッパとアフリカ、ふたつの土地で知り合った女たちの像が。なかには、あまりに昔のことで誰だかよくわからない女もいる。(中略)
彼女たちはみなどうしただろう? あのすべての女たち、彼女たちの人生は? やはり彼女たちも、なんの前ぶれもなく、追憶の海に投げこまれることがあるだろうか、そういう女もいるだろうか? あのドイツ娘。アフリカの道ばたで自分を拾い、一夜をともにした男のことを、彼女もいまこの瞬間に考えている、そんなことがあるだろうか?
(中略)
メラニーも、トゥーズ川の娘も、ロザリンドも、ベヴ・ショウも、ソラヤも、どの女もひとりひとりがわたしを豊かにしてくれた。ほかの女たちもおなじだ。どんなに冴えない女でも、どんなに不出来な女でも、胸に花が咲くように、感謝の気持ちが胸に湧きあがる。
こんな瞬間はどこから来るのか? 寝入りばなの夢か。ちがいない。だが、これはなにを意味している? もし導かれているというなら、どんな神が導いているのか?
(中略)
メラニーとのあいだには、二十列ほどの席があるが、いまこの瞬間、その距離をこえて、彼女がこの自分のことを、この自分の思いを嗅ぎつけてくれないかと、彼は願う。


人はみな孤独であり不完全な個体だ。だからこそ通じ合う瞬間は貴くなる。上の独白はあるいは手前勝手でセンチメントな中年男の思いこみかもしれない。ただ恩寵は誰にも等しく訪れるのが許されているのだ。傷つけられ打ちのめされた女にも、強盗をする男たちにも、エゴイスティックな中年男にも、決して恩寵は無縁ではありえない。審判を描いたこの小説が同時に恩寵を描くのは当然とも思える。



4151200428恥辱 (ハヤカワepi文庫 ク 5-1)
J.M.クッツェー 鴻巣 友季子
早川書房 2007-07

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著者:J・M・クッツェー訳者:鴻巣友季子出版:早川書房初版:2000/11/30 ...続きを見る
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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
epiさん、今年もまたよろしくです。
ふぅむ、『恥辱』を裁きと恩寵の物語として捉えられましたか。私は皮肉な色合いの方を強く感じましたが(初読の時)、あっでも自分の過去の感想を見ると「救い」云々という文字も発見したりして、色んな色調が見えるところがいいですよね。それが読む時のタイミングで変わったりもするんじゃないでしょうか。そこが魅力的です。ただ私にとっては中々気軽に読もうという気になれない作家であるところが、キズにタマ、ちゃう、カタナキズ‥ちゃうちゃうっ(笑)
おはな
2008/01/28 01:44
>おはなさん

こちらこそ、今年もよろしくおねがいします^^

ラウリーは最初はヒネた難しい男と思えたのですが、彼が強盗被害という審判に打ち倒されず、そこから人生についてを学び、引用したような述懐をするのに感動しました。周囲の人たちとの関わりや、また安楽死させられる動物たちを見ることから何か尊いものを学んでいく過程はじつによかった。ラストの場面は意味深でしたが…。
でも「恩寵」とはわれながら大仰な言葉でした。

クッツェーはこれがはじめてだったのですが、この前まではメタフィクション的な小説を多く書いていた作家のようですね。たぶん、そっちをさきに読んでいたら敬遠してしまったかもしれません(笑)
epi
2008/01/29 04:46

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