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zoom RSS 『ドストエフスキー 謎とちから』 亀山郁夫

<<   作成日時 : 2008/02/12 00:00   >>

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かつて十代の終りから二十代のはじめにかけてドストエフスキーに夢中になり、やがて離れ、そのままになっていたところに亀山郁夫というハンサムなロシア文学者が現われ、三十代で再びドストエフスキーを読むことに戻れたのだから自分は本当に幸運な人間だ。

本書は著者が学長を務める東京外国語大学オープンアカデミーでの講義がもとになっている。ロシア正教から分離した異端派との関係からドストエフスキーと彼の小説の特性を大胆な仮説を交えつつ述べる、亀山郁夫版「謎ときドストエフスキー」とでもいうべき一冊。
新書という形態ゆえ紙幅に制限があり、また口述筆記というスタイルも影響しているかもしれないが提出される謎のすべてが解明されるわけではない。中途半端に終って残念な箇所もある。が、ドストエフスキーがどれほどロシア正教の異端派に注目し、その主題を後期のいわゆる五大長編に「父殺し」と並べて盛り込んでいったかを知るにつけ興奮せずにはいられない。

目次は以下のとおり。

序章 一八六六年――終わりと始まり

第一章 四つの「罪と罰」
1 第一の罪と罰――父の死とヒステリー症
2 第二の罪と罰――ペトラシェフスキーの会と死刑宣告
3 第三の罪と罰――結婚と癲癇
4 第四の罪と罰――サディズムとマゾヒズム

第二章 性と権力をめぐるトライアングル
1 貧しき人々
2 コキュの登場
3 親殺しと二枚舌

第三章 文化的基層との対話
1 ミクロとマクロの視点から
2 分離派と異端派
3 ドストエフスキーの関心

第四章 屋根裏のテロル――『罪と罰』

第五章 反性的人間――『白痴』

第六章 「豚ども」の革命――『悪霊』

第七章 父と子の和解――『未成年』

第八章 大地の謎とちから――『カラマーゾフの兄弟』

終章 続編、または「第二の小説」をめぐって



第一章ではドストエフスキーの前半生を四つの「罪と罰」の視点から眺めていく。「罪と罰、そのダイナミクスが、どのように絡み合いながら、後年の五大長編が形づくられていったかを考える」ために。亀山氏によればドストエフスキーとは「根源的ともいうべき罪の意識をかかえた作家」であり、「その病的な意識がかえって罪への誘惑を生み、罪への誘惑が、小説の執筆にはけ口を求めるというサイクルを繰り返しながら」創作活動は続けられた。
ドストエフスキーの読者は『悪霊』の「スタヴローギンの告白」と同じような幼女陵辱をこの作家が現実にも犯したのではないかと疑われているのはご存知だろう。それについて確たる証拠は残っていないようだが(トゥルゲーネフだったか、その噂について語ってはいるらしい)この作家に性的な面でのある種の異常性、亀山氏の言葉を借りるなら「罪への誘惑」にかられやすい精神構造があったことはほぼ間違いないだろう。アンリ・トロワイヤはこう書いている。
いうなればドストエフスキーは、偉大な善意の人でありながら、つまらない意地の悪さも捨て切れず、大きな犠牲的行為をしていても、ちまちましたエゴイズムにこだわり、崇高な感情を理解しているのに、卑しい悪から抜け出せない。そういった両面を持っていた人なのだ。(略)
彼がスタヴローギンは<悪魔>で、ムイシキンは<聖人>だときめつけられなかったのも、もとはといえば、彼のなかにその両方に対して五分五分の、まったく同等の意識を持っていたからだ。彼の意識の二重構造は、ドストエフスキー文学のすべてを貫いている。

『ドストエフスキー伝』

この「意識の二重構造」は叙述のレベルでの「二枚舌(亀山郁夫)」と通じる。

第二章ではフランスの現象学者ルネ・ジラールの提唱する「三角形的欲望」にそってドストエフスキーの小説にみられる人間関係を読み解いていく。「三角形的欲望」では他人の所有物への羨望が主体の欲望を刺激する。本文から引用すると「人間の欲望は、主体的な自律性にもとづいて現われるわけではなく、他者の欲望を媒介としている」。「隣の芝生は青い、という言葉にそれが端的に見出されるだろう」。「他人の所有物(欲望の対象)であるからこそ、それは実体よりもいっそう輝きをもち、欲望を刺激する」。『白痴』における、ナスターシャをめぐる主人公二人の鍔迫り合いなどはこの「三角形的欲望」の典型的な例となる。

第三章ではドストエフスキー文学における「性」の主題について、とくに彼が非常に関心をもっていたロシア正教の異端派である「鞭身派」と「去勢派」について解説する。ドストエフスキーが分裂した正教の異端派に強い関心をもっていた理由はなぜか。彼はそこに何を見ていたのか。

第四章以降は五大長編についての「謎とき」――であると同時にまた「謎かけ」にもなる。ドストエフスキーの読者は、『罪と罰』の「ナポレオン主義」や、『悪霊』の「革命運動のカリカチュア」や、『カラマーゾフ』の「自由か、パンか」といった常套句にもはや飽き飽きしている。亀山氏はそういった「すれっからし」の読者を驚愕させようとさまざまな謎を提出してくる。
亀山氏はドストエフスキーの小説を複数の層に分類して読み解いていく。本書では、かつて新訳『カラマーゾフ』の解題で用いられた「象徴層(哲学的な層)」「自伝層(自伝的な層)」「物語層(プロットの層)」の三層の読みに、新たに「歴史層(ドストエフスキーの歴史観およびロシアの歴史の層)」が加わる。四つの層=視点から五大長編を読み解いていくことで慣れ親しんだ気になっていた長編群がにわかに新鮮な驚きをもって迫ってくる。『白痴』はもはや「世界最高の恋愛小説」ではなく「性を無化する現代の受け皿」となり、『悪霊』は「反革命の小説」ではなく「もっとも醜い人間」を描いた小説となり、『未成年』はマイナーな長編から「ドストエフスキーの文学世界のひとつの到達点」へと変化する。複数の視点から読むことで浮上してくる新しいドストエフスキーの小説世界。もう一度、すべての長編を読み返したくなる。いや、もう一度どころではない。何度でも。

もちろん『カラマーゾフ』についてもふれられている。一部、解題や『続編空想』と重なる記述もみられるが、それらを読んでいる読者でも新しい「謎」の提出を楽しんで読めるはずだ。その「謎」とは「スメルジャコフの父親は誰か?」というもの。スメルジャコフの父親は多くの読者が思うようにフョードルなのか、それとも江川卓氏が挙げた「ねじ釘カルプ」なのか。亀山氏が父親として挙げる人物はそのどちらでもない。彼が挙げるのは実に意外な人物でそれは――本書をお読みください。そうくるとはねえ。


最後に、本書でもっとも心を震わされた文章を引用したい。
ドストエフスキーを体験するということは、小説を読むということと同時に、ドストエフスキーの人生を知るということでもある。わたしは読者の一人ひとりに、たんに小説を楽しむだけではなく、ドストエフスキーという人間、あるいは人間ドストエフスキーの魂の研究者になってほしいと願っている。

さて、今から録画しておいたNHK「知るを楽しむ」を見るとしようか。

4166606042ドストエフスキー―謎とちから (文春新書 604)
亀山 郁夫
文藝春秋 2007-11

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4334034209「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する (光文社新書 319)
亀山 郁夫
光文社 2007-09

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4334751067カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー 亀山 郁夫
光文社 2006-09-07

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
epiさん、こんばんは。
実はこの『謎と力』、私も自分のblogで取り上げようと思っていたのですが(3回も読み返したのですが)、結局書けずじまいでした。epiさんの文章には正直なところ嫉妬を覚えます。とても私より一つ年下だとは思えません。
以前、岩波新書に故江川卓さんの『ドストエフスキー』という本が入っていて、ドストエフスキー関連の本としてはスタンダードだったのですが、今やこの『謎と力』が新しいスタンダードとなりつつあることは、疑えないことだと思います。私としては、この本の弱点は、《五大作品》とまとめてしまうことにより、構成に若干の恣意性が生まれてしまったことだと思います。帯の解けたロールキャベツのような・・・。しかし、この本の持つ生命力には偉大なものがあることに変わりはありません。
Mr.マクベ
2008/02/13 22:13
>Mr.マクベさん

やはりMr.マクベさんも『謎とち』をお読みでしたか。非常に挑発的で読者を興奮させる一冊でしたね。おっしゃるとおり「偉大な」一冊と思います。
日本のドストエフスキー研究では江川卓氏の業績が世界的に見ても偉大なようで、亀山氏もリスペクトしているらしいのが本書でも散見されますが、まだ江川氏の著作は読破したことがありません…。個人的には中村健之介氏と亀山氏がいればもういいや、と思っている怠け者です。これでは「人間ドストエフスキーの魂の研究者」になんて絶対になれませんね(笑)

ただ亀山氏の文章のもつ高揚感やダイナミクスは校正を経た本の形態では失われているように思えました。氏にはそれよりも即時的なblogの形態のほうが合っているのではないか、という気もします(偉そうに…)。
epi
2008/02/15 23:39

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