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zoom RSS 『肉体の悪魔』 ラディゲ

<<   作成日時 : 2008/02/23 00:00   >>

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恋愛心理小説といえばフランス文学だろう。『アドルフ』や『赤と黒』や『失われた時を求めて』や『選ばれた女』など枚挙に暇がない。どれも克明に恋愛における主体の欲望と心理を描出しており身につまされる。

本作もその伝統あるフランス文学の恋愛心理小説の系譜に連なる一冊。訳者および三島由紀夫によれば、ラディゲはプルーストと並んで「小説という文学形式の終末を予言したような究極の小説」を書いた作家になるらしいが、あまり三島由紀夫という人と相性がよくないのでこの小説に関しては何年も前の初読(新庄嘉章訳の新潮文庫)のとき同様、今回の新訳での再読でもよさはあまりわからなかった。

ストーリーは凡庸の一語に尽きる。
第一次世界大戦に夫を送り出した19歳の人妻マルトと、語り手である16歳の「僕」との不倫の恋の顛末…それだけ。二人が低年齢であることを除けば同種の小説は数限りなくあるだろう。

もちろん目が覚めるような一節に出くわすことはある。少し長くなるが引用する。「僕」が愛人であるマルトの気持を疑う場面だ。
じっさい、僕はマルトの愛をしばしば疑うのだった。ときには、彼女にとって自分が暇つぶしのたねではないかと思うことさえあった。平和が戻って妻としての義務に目覚めれば、すぐにも放りだしてしまう気まぐれではないか。いっぽう、こんなふうにも考えた。唇から出る言葉、目の表情を見れば、嘘をついていないことが明らかなときがある。とはいえ、どんなにけちな人間だって、いったん酔っぱらえば、腕時計や財布を投げだして、人がそれを受けとらないと怒ることがある。こうしていい気持に酔っているときも、酔っていないときと同じくらい真剣なのだ。嘘をつくはずのないときこそが、いちばん嘘をつくときでもある。とくに、自分自身に対して。「嘘をつくはずがないとき」の女を信じることは、けちな人間が酔っぱらったときの気前のよさを信じるようなものだ。

頷くかたは多いのではないか。

この小説でもっとも驚嘆すべき点としてよく挙げられるのが、執筆時の作者の若さだ。巻末の年譜を見るとラディゲは17歳でこの小説の執筆を開始して20歳で完成、出版している。上に引用した箇所を、そんな若者が書いたとはとうてい信じられない。ラディゲは周知のように20歳で死んでおり、「小説のランボー(コクトーの言葉だっけ?)」という比喩のとおりの「恐るべき子ども」だった。
しかしたしか本人はそうした「若者のわりには凄い」という見方をされることに(当然の心理だが)反発していなかったか。「年齢のことは言わないでほしい。これを17歳の人間が書いたとしても、すべての詩人は何歳になっても17歳のこころで作品を書いているのだから」と語ったのはラディゲだった…よね?(『ドルジェル伯』の序文だったか?)


さてコーエンの『選ばれた女』は別格として、コンスタンの『アドルフ』こそ恋愛心理小説の傑作と思い込んでいる人間が、この『悪魔』に感心できなかった理由は小説全体の構成が不整合に思えたため。全編、章分けはされずに比較的短い文章が区切られながら続く。そのため小説中の時間の流れを把握するのが難しく感じられる。訳者も解説でその点にふれ小説内の出来事を表記した年表が付いているが、訳者はそれをラディゲの「天才の証」としている。そうだろうか。
もうひとつの理由として、若者というか少年が主人公だからか、ときとして支離滅裂とまではいわずとも、突飛というか理解しがたい行動に出る彼の心理が理解できなかったというのがある。感覚としては若者の手記という形式をとったドストエフスキーの『未成年』を読んだときの混乱に似ている。本作もある意味では青春小説だろうが、たとえばオースターの『ムーン・パレス』を読んだときのような共感はあまりできなかった。心理小説に共感できないのでは悪い読者だなあという気がする。
内容のほとんどが恋愛感情の描出になっている小説なので読んでいて疲れる。俗っぽくなるが恋愛は「若さ」と「馬鹿さ」がないとなかなか難しいとつい思う。

再読では本筋であるマルトと「僕」の愛憎入り混じる恋愛よりも、寝取られ亭主である、マルトの夫のジャックが気になって仕方なかった。「僕」に夢中のマルトはもはやこの夫のことなど眼中になく、せっかく戦地から一時帰国したのに素っ気ない妻の様子が気になって、「どうかしたのか?」と訪ねるジャックに「別に」と冷ややかに答えたきり黙り込んでしまう。戦場では死の危険と隣合わせで戦っているというのに、妻はというと若い男との情事に耽っており、愛する彼女のために月明かりを頼りに貴重な少ない睡眠時間を削って書いたのだろう手紙を、妻は見もせずに暖炉のなかに棄てている。なにも知らず様子の変わった妻におろおろするしか術のない夫。そしてあのラスト。「哀れなジャック」に対する憐憫の情はここで最高潮に達する。『選ばれた女』のアドリアンといい、『ボヴァリー夫人』のシャルルといい、わたしはこういうダメ男系の寝取られ亭主キャラにからきし弱い、みたいだ。


ところで恋愛小説である本作の終盤、恋情の激しさに嫌気が差した主人公がこう述べる箇所がある。
「僕は愛などなくてもいられるように早く強くなりたかった」。
この一文と共鳴するような文章を、やはり恋愛小説の傑作であるある小説のなかにあったのを思い出した。以下はその引用。
「なにか肉体というものが、愛のほんとうの成長、愛の自己実現を邪魔するような感じなの。こんなの、みじめに聞えるかしら?」

「愛には何か――欠けたところがあるとはいわない、欠点はわたしたちのほうにあるから。でもわたしたちはなぜか愛の本質を誤解してしまった。(略)愛というものはおそろしく頑なで、わたしたちにはある一部分が割り当てられているだけ。配給なのよ。さまざまな形で現れて、さまざまな人々に結びつくことができるけれど、でも量には限りがあって使っていればなくなるし、本当の対象にたどり着くまでに店ざらしになって色褪せてしまうこともある。なぜって愛の目的地は内面のいちばん奥深いところにあるのだから。そこまで行き着いたときに愛はみずからを自己愛と認めるようになり、その自己愛を基礎として、健やかな心を築き上げるのだと思うの。わたしは利己主義とか自己陶酔のことを言うのではないのよ」

ロレンス・ダレル 『アレクサンドリア四重奏

わたしの人生観、恋愛観はこの小説を読んだ昨年の夏以降、ずっとこのクレアというヒロインの言葉の影のうちにある。いまさらだけれども、小説って、やっぱり、とんでもなく、いいもんだね。



4334751482肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)
ラディゲ 中条 省平
光文社 2008-01-10

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恋愛心理を細緻に分析、描出した小説としてはこれがおもしろいかと。薄いです。
4102073019アドルフ (新潮文庫)
コンスタン Benjamin Constant 新庄 嘉章
新潮社 1954-06

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これは凄すぎる恋愛小説。あんまり傑作すぎるので、本当は内緒にしておきたい。
4336047553選ばれた女〈1〉 (文学の冒険シリーズ)
アルベール コーエン Albert Cohen 紋田 廣子
国書刊行会 2006-09

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上のクレアの言葉はこちらから。一巻はちょっと退屈。
4309623018アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ
ロレンス・ダレル 高松 雄一
河出書房新社 2007-03-17

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