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zoom RSS 『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ

<<   作成日時 : 2008/02/26 00:00   >>

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愛読する一冊。

再読になる。このたび池澤夏樹氏編集の『世界文学全集(河出書房)』の一冊に選ばれ、クンデラ自身が加筆修正した真正テクストであるフランス語版が西永良成氏によって新訳された。1984年発表の本作に、2007年にクンデラが17箇所の訂正をほどこした、いわば日本語訳決定版ともいうべきバージョンであるが、以前に読んだ千野栄一氏による集英社版とどこが違っているのかぜんぜんわからなかった…。また、たびたび拾い読みをしていたとはいえ今回久々の通読だったにも関わらず、読み終えたときの印象は初読のときとあまり変わらず、これといった新しい発見もなく、むしろこんなにも難解な考察を含む小説だったかと驚いた(とくに第6部のキッチュ批判の箇所)。

舞台は「プラハの春」時代のチェコスロヴァキア。四人の男女が登場する。有能な外科医にして猟色家のトマーシュ。トマーシュをひたむきに愛する妻のテレザ。トマーシュの愛人の一人で、才能に恵まれた画家のサビナ。サビナを愛する大学教授のフランツ。
歴史という「非個人的な」「統御できない」「計りしれない」「理解できない」そして「誰もそこから逃れられないもの」に翻弄される悲喜劇的な彼らの運命を通じて、たった一度きりの人生とは「重い」のか「軽い」のか、われわれ人間とは耐えられないほど軽い存在であるのか、という哲学的な命題を読者に問いかける。

わたしたちは誰もが一度きりしか生きられない。生きるというのは選択することだが、何かを選択したとき、あとになってもう一方のほうを選んでいたらどうなっただろうと考えたところで詮無い。やり直すチャンスなど決してないのだから、何が正しい選択で何が正しくない選択なのか、その答えを知ることは永遠にできない。テレビゲームならば重要な選択のまえにセーブをして、気に入らない結果ならリセットボタンを押してやり直すこともできるが人生はそうはいかない。
あのときああしていたら…と思うことは多い。歳をとればとるほど多くなるだろう。しかし悔やんだとてどうにもならず、別の可能性について考えたところでそれは空想にしかならない。
何があってもそれが自分の人生なのだと受け入れること。運命という便利な言葉もある。なるべくしてなったこと、つまりは運命だと。しかし本書にも登場する哲学者のニーチェは、この運命という言葉について少し変わった解釈をしている。

(わたしの理解は間違っているかもしれないが)ニーチェによれば運命とは人間を超越した存在によって外部から加えられるものではなく、人が生きているその瞬間ごとに生まれているものだという。
トルコ人の宿命論。――トルコ人の宿命論が持つ根本的誤謬は、人間と運命とを二つの別物として相互に対立させたという点にある。つまりその宿命論によれば、人間は運命に抵抗してそれを何とか阻止しようと努めることはできても、しかし結局はいつも運命の方が勝利を収めるので、だから、諦めるかあるいは気ままに生きるかするのが一番賢明だ、というのである。けれども本当は、どんな人間もみな彼自身が一個の運命なのである。彼が上述の仕方で運命に抵抗していると思いこむならば、実はまさにその点でやはりまた運命が生起しているのである。運命との戦いなどは一つの妄想であり、逆にまた右のような運命への諦念も同じく妄想であり、それらすべての妄想が、つまり運命の一部なのである。(略)運命を存在すると見る信仰に対するあの不安もまた、運命なのである。哀れな小心者の君自身が、実は、何ものにも支配されない運命の女神(モイラ)なのである。

『人間的あまりに人間的』

運命は「ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」なんて大仰な音を響かせたりはしないということかしらん。


本書の巻末に、訳者による20ページもの解説がある。クンデラはこの小説のなかで「キッチュ=俗悪なるもの」を非常に厳しく批判しており、訳者は、この小説は「反キッチュ的実存小説」であるとしている。キッチュの概念についてはしょうじき難しく、どこまで理解できているのやら怪しいのだが、なんとなくではあるがわかりやすい箇所があるので引用すると、
キッチュは立てつづけにふたつの感動の涙を流させる。最初の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちは!」第二の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちを見て、全人類とともに感動するのは!」この第二の涙だけがキッチュをキッチュたらしめるのである。すべての人間たちの友愛は、ただキッチュのうえにしか基づきえないだろう。

クンデラは小説中で幾度もキッチュを批判するが、結局はキッチュは人間の条件の一部なのだという苦い結論を下すことになる。


しかし何はおいてもこの小説は愛の小説だ。愛の小説といっても男女の恋愛をさしていうのではない。
知られているとおり、この小説は恋愛および性の主題をもっている。『存在の耐えられない軽さ』は紛れもなくすぐれて哲学的な恋愛小説である。弱い側(女)がその弱さのゆえに強い側(男)を制圧するという力の逆転を恋愛関係に見出したクンデラの視点は素晴らしいの一語に尽きる。ただそれ以上に、人間同士の愛情よりも人間と動物の間に生まれる愛情こそより純粋でより自由だと述べる、あの奇跡のような第7部があるからこそ、この小説が何年ものあいだ、わたしをわしづかみにして放さないのだ。

太古から変わることなく人間は動物よりも生物としての位階は上に決まっているのか。そこに疑問の余地はまったくないのか。
『創世記』の冒頭には、神は人間が鳥たち、魚たち、家畜たちのうえに君臨すべく人間を創ったと書かれている。(略)そう、鹿や牛を殺す権利、それこそ全人類が、たとえ血腥い戦争のあいだであっても、仲良く意見が一致するただひとつのことなのだ。

この「ただひとつのこと」を、たとえばデカルトも疑わなかった。
デカルトはそれよりももっと先にまで突き進んだ。彼は人間を「自然の支配者にして所有者」にしたのだ。そしてきっと、まさしくその彼が動物たちに心があるのを否定したという事実のうちには、なにかしら深い論理的必然がある。デカルトは、人間が所有者にして支配者であるのに対して、動物のほうはたんなる自動人形、生命のある機械、「マキナ・アニマタ(動物機械)」にすぎないと言う。ある動物が呻くとき、それは嘆きではなく、よく機能しない機械装置の軋みにすぎない。荷馬車の車輪が軋んだら、それは荷馬車が苦しんでいるのではなく、そこに油が差されていないということだ。だから、動物の嘆き声もこれと同じように解釈されねばならず、実験室で生きたまま切り分けられる犬のことで嘆き悲しんではならないのだと。

しかしニーチェは違った。
私(引用者注=クンデラ)にはあいかわらず、切り株に座ったテレザが見える。彼女はカレーニンの頭を撫で、人類の破局のことを漠然と考えている。と同時に、私にはもうひとつのイメージが出現してくる。ニーチェがトリノのホテルを出る。彼は眼前に一頭の馬と、その馬を鞭で叩いている御者の姿を認める。ニーチェは馬に近づき、御者の見ているまえで、その馬の頸を腕に抱きしめて、よよと泣き崩れる。
それは一八八九年のことで、ニーチェもまた、すでに人間たちから遠ざかっていた。言い換えれば、まさにこのときに彼の精神病が発症していた。しかし、私見によれば、まさしくそれこそが彼の所作にその深い意味をあたえるものなのである。ニーチェはデカルトに代わってやってきて、馬に許しを乞うたのだ。彼の狂気(したがって彼の人類との決別)は、彼が馬の身の上に涙する瞬間にはじまるのである。
そして私が好きなのはそのようなニーチェだ。

カレーニンというのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』にちなんだ、犬の名前だ。

クンデラは人間同士の愛よりも、人間と動物との愛のほうがより良いものだという。より大きいとはいわない。より良いというのだ。なぜか。それは愛情の純粋なかたちである「無私」の精神が一切損なわれないからだ。
テレザはなにひとつカレーニンに求めない。彼女は愛さえも要求しない。彼女は一度も、人間たちのカップルを悩ます次のような質問を自分にしたことがなかった。彼はあたしを愛しているのだろうか? 彼はだれかをあたし以上に愛したのだろうか? あたしが彼を愛している以上に、彼はこのあたしを愛しているだろうか? 愛を問い、測り、探り、調べるこのような質問は、たぶん生まれるまえに愛をつぶしてしまうものなのかもしれない。もし私たちが愛することができないとすれば、それはおそらく、私たちが愛されることを欲するから、言い換えれば、私たちがなんの要求もなしに他者のところに赴き、その他者がいてくれること以外のなにも望まないと思わずに、他者のなにか(愛)を欲するからなのだ。

人を愛してしかし愛情が得られず、ために苦しむ人間は掃いて捨てるほどいるが、犬(ほかの動物でも)を愛して、愛の見返りがないことに絶望している人間にはまだお目にかかったことがない。ただ、このクンデラの考察に強く反応するのは、あるいはわたしが動物好きな人間だからかもしれない。おもしろいのは、親にとっての子どもだってそうではないのかという意見が出そうなのに、ヒロインのテレザは子どもをもつことにまったく無関心で、それどころか自分に子どもがいないことにほっとしているほどなのだ。

いつの日か遠い未来に、もはや人間は他人を求めなくなるときが来るかもしれない。他人を愛するということの意味が失われるときが来るかもしれない。そんなときが来たとしても、動物への愛は人間への愛よりは長く残るのではないかという気がするのだが、どうだろうか。


それにしても、小説の終わり近くで、老いたトマーシュを見るのは、テレザと同じく辛い。何度読んでも辛い。テレザは弱く、トマーシュは強かった。しかしテレザは自分の弱さを利用してトマーシュより優位に立つことができた。結果、トマーシュはすべてを失った。自分が、愛している男に何をしてきたのかを悟ったテレザは、夫のためにめいっぱいのお洒落をして、一緒に踊り、そして謝る。この場面は美しい。
テレザ「トマーシュ、あなたの人生の、すべての悪の原因はあたしよ。あたしのせいで、あなたがここに来たのよ。このあたしが、これ以上下に行けないくらいの、こんな下にまであなたを引きずってきてしまったの」
トマーシュ「馬鹿なことを言うんじゃない。だいたい、どういうことなんだ、こんなに下というのは?」
テレザ「もしチューリヒに残っていたら、いまごろあなたは患者さんたちの手術をしていたでしょう」
トマーシュ「そして、きみは写真を撮っていただろう」
テレザ「そんな比較はできないわ。あなたにとって仕事はこの世でいちばん大切なものだった。でも、あたしのほうはなんだってできるんだし、あんなものどうだってよかったのよ。あたしはなにも失わなかった。すべてを失ったのはあなただわ」
トマーシュ「テレザ。ぼくがここで幸福だったことに、きみは気づかなかったのかい?」
テレザ「あれはあなたの使命だったのよ、手術をするのは!」
トマーシュ「テレザ、使命なんてくだらないものだよ。ぼくには使命なんてものはない。だれにだって使命なんかないんだ。そして自分が自由で、使命なんかないと気づくのは、とてつもなく心が安らぐことなんだよ」

ニーチェならいうだろう。運命を愛せ、と。
運命愛、これこそが私の道徳であろう。やむをえざる必然的なものを手厚く大事に扱っておやり。そしてそれを、そのいまわしい由来から引き上げて、君自身にまで高めてやることだ。

『生成の無垢』



冒頭近くに、ひさびさの通読にも関わらず読後の印象は変わらなかったというようなことを書いた。なぜかと考えてみて、けっきょくこの小説を初めて読んだときからずっと、自分はこの小説のなかにあるいくつかのモチーフをずっと身内に溜めていたこと、通奏低音のようにこの小説の影響が、読んでいないときも流れていたからではなかったか、という気がした。読んでいないときも、読んでいたのだ。そういう、まるでオーダーメイドのような(この喩えはおかしいが)小説に出合えるかどうか、これは運としかいいようがないが、それもまた一個の運命なのだ、とか聞いたふうなことをいってみようか。そしてそういう小説に出会ったなら、愛さずにはいられないだろう。そういえばニーチェは「愛というものも、人は学ばねばならない」とかいうようなことをいっていた。人間を愛するのも、星を愛するのも、音楽を愛するのも、小説を愛するのも、結局はどれも変わりないのだという気が、いまはしている。



4309709435存在の耐えられない軽さ (世界文学全集 1-3) (世界文学全集 1-3) (世界文学全集 1-3)
ミラン・クンデラ 西永 良成
河出書房新社 2008-02-09

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4087603512存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン クンデラ Milan Kundera 千野 栄一
集英社 1998-11

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クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
個人的に、重い小説だった。 決して晦渋ではないし、翻訳が滞っているわけでもない。 ただ、すいすいとは読み進めることができない。 集中して読むと、その分だけどっと疲れてしまう。 それはテーマも、作家の方法も軽々しくないからかもしれない。 ...続きを見る
Proust+ プルースト・プラス
2008/03/16 23:58

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
うわ〜。俄然読みたくなってきました。
誰かが偏愛している小説ってそれだけで宝石の輝きを放つものなんですね。
読む時は大切に心して読みたいと思います。
りつこ
2008/02/28 00:34
>りつこさん

どうか心してではなく、「読んでみるか〜」という「軽い」気持ちで手にとってみてください。しかし、今回の再読で感じたのえすが、もし今の自分が初めてこれを読んだら、はたして偏愛の一冊になったかどうか…じつは微妙です。当時は少し厄介な状態にいたことがこの小説に共感できた理由だったのかもしれません。出合うタイミングがよかったのでしょうね。
epi
2008/02/28 11:29
小説があるとは知りませんでした。映画が素晴らしかったので、
私のベスト5にこの映画が入っていますよ。
本も読んでみたくなりました・・。
ひらめきハート
2008/03/16 17:20
>ひらめきハートさん

はじめまして。
わたしはどうしても映画版が最後まで見られません。DVDを所有しているのですが…。よい出来だとも聞いているのに。

この小説の魅力はむしろ映像化できない部分にこそあるように思いますよ。
epi
2008/03/17 00:50

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