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zoom RSS 『鳩の翼』 ヘンリー・ジェイムズ

<<   作成日時 : 2008/03/15 00:00   >>

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愛する女と結ばれるために男にはどうしても金が要った。彼女は裕福な生活を望んだから。だから彼女は彼に教唆した。鳩のようなあの女に近づけばいい、と。鳩のようなその女は莫大な財産を所有していながら死の病に冒され余命いくばくもない。彼女に恋の罠を仕掛け、その財産を掠め取ればいい――美しい彼女はそう彼に囁いた。

典型的な三角関係の物語だ。イギリス人の青年ジャーナリスト、デンシャーにはケイトという美貌の恋人がいる。ケイトは零落した家の娘で、いまは伯母のもとに身を寄せている。伯母は美しい姪を利用して社交界に打って出ようと考えており、彼女が貧しいデンシャーと結婚することに否定的でいる。それならば金さえあれば伯母は自分たち二人を祝福してくれるとケイトは考え、偶然知り合った純真なアメリカ娘のミリーを利用することを思いつく。ミリーは莫大な財産を相続した身ながら死の病を患っており、早死には避けられそうもない。しかも彼女はデンシャーに好意をもっている。
舞台は完璧に準備されている。愛と金をめぐる策謀とロマンスの舞台が。

主人公たちは世界を移動する。舞台はボストン、ロンドン、そしてヴェニスへと移っていく。新聞社から派遣されてボストンを訪れたデンシャーはミリーと出合い、彼の帰国後、彼女は恋した男を慕って、友人のストリンガム夫人とともにロンドンへ旅立つ。その地でケイトとも知り合うが、彼女とデンシャーが婚約しているという事実はミリーには隠される。病の進行に脅えるミリーはその後ロンドンを後にし、ヴェニスを訪れる。「人よりはやく生きる」ために。由緒ある宮殿を借り切って、それまで着ていた黒い服を脱ぎ、「鳩」にふさわしい白い装いで身を包む。薬の臭いを人に感じさせずに死にたいと望んでいる彼女にはいつしか王女の風格すら漂う。
彼女の印象にはまさに王者の品位があった――彼女はストリンガム夫人がいつも言っていた通り、非の打ちどころのない王女であった。


対立的に描写される二人のヒロイン。
ケイトの美貌について小説中では幾度も言及される。彼女はまた、のし上がるためには手段を選ばない強い女だ。「あなたはなぜそんなことが好きなのだろう」と彼女の目論見を批判するデンシャーに彼女は答える。「好きではありません。ただありがたいことには、わたしは嫌いなことでも実行できるたちの人間なのです」と。
一方で、ミリーの容貌について作者はほとんど言及しない。しかし彼女もまた強い女だ。デンシャーへの恋情を抑制し、人と会うときはベッドではなく必ず大広間へと下りてくる。孤独に、静かに、迫り来る死の恐怖と向かい合っている。決して、ただの一言も、泣き言をもらさずに。
デンシャーのこころは、この二人の「強い女」のあいだで揺れ動く。

小説はやがて微妙な展開を見せる。ケイトの教唆もあったが、友情から(あるいは同情から?)ミリーと親交を結ぶデンシャーの感情に次第に変化がみられるようになる。根が善人のデンシャーはミリーに対して冷徹になることができず、のみならず彼女にこころが傾いていく。もちろんケイトを愛してはいる。しかし恋人の無慈悲な策謀に疑問を感じ、彼女とのあいだに小さな亀裂が生じつつあるのを予感する。

まもなく死を迎えるミリーは、決して直接的な表現はしないけれども、デンシャーに対して積極的に好意を表明する。いまや彼女にとって、彼の存在が生きる支えとなっているのだ。二人がヴェニスの豪壮な宮殿で交わす会話は美しく、また奥ゆかしい。
ミリー(以下M)「あなたはわたくしがそんなにひどく悪いと思っていらっしゃいますの?」
デンシャー(以下D)「あなたの言うことなら、ぼくは何でも信じます」
M「では申しますが、わたくし素晴らしく元気ですのよ」
D「ああ、そのことなら言われなくても判っています」
M「つまり、わたくしには生きる力があるのです」
D「それを疑った覚えはぼくは一度もありません」
M「つまり、わたくしは心の底から生きたいと願っているのです。ですから――」
D「だから?」
M「ですから、わたくし、生きることができるということを知っています」
D「何をしても?」
M「何をしても。わたくしが望むなら」
D「あなたがしたいと思えば?」
M「わたくしが生きたいと願えば。わたくしにはできるのです」
D「では、ぼくはその言葉を信じます」
M「わたくしは生きるつもりです、生きるつもりです」
D「ぜひとも生きなければいけませんよ」


しかしミリーは助からない。「鳩」の彼女はやがてその翼をたたむ。たたんだ翼は残された本当の(?)恋人たちに影を落とす。
もはや彼らは昔のようには戻れない。ケイトにとっては友人、そしてデンシャーにはとっては恋心を寄せた相手、その人が死んだ今、二人を結ぶ糸は切れかかっている。関係を修復させる助けとなるのはミリーがデンシャーに遺した少なくない額の金だけだ。
ミリーの死を待たずしてロンドンに帰国したデンシャーのもとに、やがて彼女の死が知らされる。時が経ち、クリスマスの日、美しい筆跡で書かれたミリーからの手紙が彼に届く。彼は封をしたまま、手紙をケイトに見せる。そこにミリーから遺贈された金額が記載されているはずだ。ケイトはしかしこの手紙を開封しない。恋人から手紙を渡された彼女は、それを暖炉のなかに投げ入れる。どのみち金が手に入ることはわかっている。それを見たデンシャーはあとになって思う。
彼女(引用者注=ミリー)が遺贈の行為に籠めた意味は、永遠に失われてしまったのだ。さまざまに解釈されるその意味をどうにかして確かめたかったデンシャーは、思い切って想像力を働かせ、本当の意味と思われるものを大きく美しく心に描いてみた。そしてその結果生まれてきたのが、眼の前で――拾わないと誓った上で――底知れぬ海中へ捨てさせた貴重な真珠のように、一つの啓示を失ってしまったという喪失感だった。それは、あるいはむしろ、何か感覚も鼓動もそなえた生き物を、心の耳を傾ければ微かに遠い悲鳴が聞こえたかも知れない生き物を、生け贄にしてしまった気持だった、とさえ言えるだろう。


「あなたは彼女と恋に落ちたのです」。
このケイトの言葉をデンシャーは否定しない。もはや二人の性格の対立は明確なものとなった。デンシャーは「昔のままで」結婚したいと望んだ。しかしケイトは昔のままには戻れないという。デンシャーはミリーから遺贈された金をケイトに「事実上の手切れ金」として譲渡し、彼には死んでしまった女の面影だけが残される。
馬鹿にはなりたくないくせに、ケイトの企んだ策謀から身を引けなかったデンシャー。彼の特徴を訳者は解説でこう描き出す。
「愛する女を抱きたいと思い続けながら、その気持をを利用されてずるずると女の策略の片棒をかつがされ、ついに思いを通して女を自分の宿へ来させたとは言い条、かえって拭い去ることのむずかしい汚点を自分自身の心につけることにな」り、「次第に性格の対立が明らかになったケイトと別れるのに、彼自身としては絶対に受け取れるはずのないミリーから遺贈された金を、事実上手切れ金として渡さざるをえなくな」る彼は、「興味深くも歯がゆい男」だと。
そう、デンシャーは煮え切らない駄目な男だ。しかしジェイムズはこの人物をミリーと同じく「優しい想像力」の筆で好意的に描いている。

そして、ミリー。
人生を楽しみ尽くすだけの財産を持ちながら、人生を謳歌できなかった可哀相な娘。若くして死んだ、ジェイムズの従姉妹の思い出が投影されているこのヒロインを愛さずにいられる読者がどれほどいるだろう。ヴェニスの宮殿を借り切って、王女の振る舞いをし続けたのは、訳者の指摘どおり、彼女が本当にデンシャーを愛していたからだ。愛する男にこう見られたいと思っていた姿で、彼の記憶に残ることを望んだミリーの思いの深さに打たれずにはいられない。薬の臭いを人に感じさせずに死にたいという望みと同じく、「病苦の現実からもっとも遠く隔たった」、白いドレスを着て、微笑みながら宮殿の階段を降りてくる自分の姿を、愛する男には覚えていてほしかったのだ。もう長くはない命だと悟っていたから。ここにロマンスは極まる。

そう、ジェイムズは小説についてこう考えていたという。
「小説が興味深くあるためには、現実的な要素とロマンチックな要素を兼ね具えていなければならない」。
これに異論はない。



4061975854鳩の翼〈上〉 (講談社文芸文庫)
ヘンリー ジェイムズ Henry James 青木 次生
講談社 1997-09

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4061975897鳩の翼〈下〉 (講談社文芸文庫)
ヘンリー ジェイムズ Henry James 青木 次生
講談社 1997-10

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