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zoom RSS 『「痴呆老人」は何を見ているか』 大井玄

<<   作成日時 : 2008/03/25 00:00   >>

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タイトルから老人福祉または介護医療の問題を論じたものと思ったら、それだけにとどまらない。医師である著者が若き日に接した「ぼけ老人」たちとの出会いからまずはその問題にふれるが、そこからさらに論を展開して「私とは何か」という哲学的な考察にまでいたる。その過程は実にスリリングで、読んでいてただただ感嘆した。

多くの人が痴呆症(さいきんは認知症という語が用いられるようになったが、著者はあえて痴呆と書く)を恐れる。わたしとてそうだ。なぜか。その理由は大きく分けて二点に絞られる。
ひとつは自分の独立性を失うから。
もうひとつは周囲に迷惑をかけるから。
調査の結果によるとアメリカでは前者が多く、日本では後者が多いという。個人の自立に価値を置くアメリカと、協調性を重視する日本という図式はステレオタイプに過ぎるかもしれないけれど、この二国の比較については本書の後半で述べられる。ハーバード大学大学院修了の著者がアメリカ的な価値観に否定的なのが興味深い。本書にはまた仏教哲学の用語が重要な鍵言葉として出てくる。

それはそうと、そもそも「ぼけ」とはいかなる状態をさすのか。
誰でも年齢を経れば記憶力は衰える。判断力も鈍る。しかしこれは人間という生命体が生きているうえで当然の過程だ。気をつけなくてはいけないのは、「ぼけ」とはここからここまで、と明確に分類できる症状ではないのだということ。「ぼけ」と老化による知力の衰えの境界線は実に曖昧で判断するのは容易ではないことを知らなくてはいけない。

「ぼけ」と老化による知力の低下とを分ける際に著者が注目するのは、患者自身よりも周囲との「つながり」の強弱だ。似た状態にある人間が、老人を尊敬する文化のある国や地域では「老いの過程にある正常な人間」とみなされる。一方で、緊張関係にある家庭では「ぼけ老人」のレッテルを貼られる。
つまり「ぼけ老人」は老人自身の問題というより、周囲との関係による場合が多いようです。意地悪な人間関係の下では「ぼけ老人」は早々に発生するが、温かく寛容な人間関係では、知力が相当低下しても「ぼけ」とは認知されにくくなる。


年齢に伴う機能低下や、はっきりした病気があっても、自分が家族や友人を含む広い意味での社会環境とうまくつながって生きている、という感覚があれば、その人は「健康」でありうる。老年期はいわば長く延びたグレイゾーンであって、「病気」と思うと「病気」、「健康」と思うと「健康」といった心理現象が日常的におこります。

もちろん「ぼけ」とアルツハイマー病は違うので、アルツハイマー病は検査によって診断される。

ここまででも十分刺激的なのに、ここからさらに著者は踏み込む。「ぼけ」によって自分の独立性が失われることがこの状態の恐れられる理由のひとつだったが、そもそもそこの独立性とは何か。もっといえば、独立しているというこの「私」とは何か。
心理学者のウィリアム・ジェームス(小説家ヘンリー・ジェイムズの兄)の「私(self)」論がその手がかりとなる。
ジェームスは、《私》(客我)について、通常まったく気づかない洞察をしています。それは《私(me)》と「私のもの(mine)」とは区別することができない、つまり両者は重なり合った心的経験だということです。
彼によれば、わたしたちは自分のものと感ずる事物については、自分自身と同じように愛着し、その度合いに応じて行動します。私の評判、私の子ども、私の作品などには、私の身体と同じような親愛感を抱く。これらが傷つけられると、自分の身体が傷つけられたかのように報復したくなるのです。つまりmeである《私》は、広義には「人間が『私のもの』と呼びうるすべてのものの総和」ということになります。


わたしたちが理解する「私」とは、名前、年齢、家族、職業などいわば属性や社会的関係、さらに自分の交友や過去の歴史がつながった「結節点」です。


自分をさがしていくら自分の内面に沈潜してみても、海外を旅してみても、そこに本当の自分なんて見つからない。脳や身体に堆積した記憶、家族や友人や恋人との関係、職業や社会での位置、趣味や特技などなど、それらの総和がつまりは本当(という語も妙だ。これでは本当でない自分もいることになってしまう)の自分なのだと知れるだろう。

自意識だけが肥大して、自己に執着するあまり自分自身に対しては敏感すぎるほど敏感になりながら、逆に他者に対しては鈍感になっていく。青春期の自分はそんなだったなあといま心底からの羞恥心とともに思い返している。それではいけない。他者もまたわたしなのだ。こうの史代さんが新作『この世界の片隅に』の献辞として「この世界のあちこちのわたしへ」と書いているのはそれを示しているのだ。

「人間は無数のつながりによって生かされているに過ぎません」と著者は本書を結ぶ。それがただの美しい言葉としてではなく、どれだけ切実に実感できるか。手塚治虫の『ブッダ』に、すべてのいのちが手をつないで輪になっている彼岸(?)の場面がある。結びの言葉で連想したのがその場面だった。

(少なくともいまは)健康に生きていられることに感謝するとともに、他者に対して、あの憎らしい大嫌いなあの人に対しても、優しく接したくなる気持にさせてくれる非常に感動的な一冊だった。そうそう、人間は現実を仮構して生きているという、わたしが『アレクサンドリア四重奏』読了いらいずっと書き続けてきたことを著者も本書で述べている。そういえばニーチェも述べていた。人間は事実そのものなんて決して経験できなくて、ただ解釈だけがある、とかなんとか。


410610248X「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)
大井 玄
新潮社 2008-01

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こうの史代さんはいまいちばん好きな漫画家。
4575941468この世界の片隅に 上 (1) (アクションコミックス)
こうの 史代
双葉社 2008-01-12

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4267890021ブッダ全12巻漫画文庫
手塚 治虫
潮出版社 2002-11

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痴呆症の妻との日々を淡々と書いた耕治人氏の所謂「命終三部作」が収められています。最後の「そうかもしれない」は悲哀で胸が痛くなるほどの傑作。
4061961276一条の光・天井から降る哀しい音
耕 治人
講談社 1991-05

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老人を排除する「意地悪」な世の中にしないために。誰だって順番にやがて老いる。大好きなあの人も。あの子も。
4101136017楢山節考
深沢 七郎
新潮社 1964-07

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