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zoom RSS 『合コンの社会学』 北村文 阿部真大

<<   作成日時 : 2008/04/01 00:00   >>

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わたしの理想の女性の一人に絵本作家(という肩書きでいいのか)の佐野洋子さんがいる。佐野さんが以前に読売新聞の「本よみうり堂」に寄稿した文章のなかに、「(本を読んでいて)下らない本にぶちあたると、どこまで下らないか調べるために最後まで読んだ。読みながら毒づくのが好きだった」という箇所があり、それまで恥ずかしながら『100万回生きたねこ』の存在を知らなかったのだが、先に引用したくだりを読んですっかり魅せられ、どんな人なのだろうと興味をもち、すぐさま本屋へ行ってちくま文庫の『私はそうは思わない』を買い、読んで、こんな器のデカい人がいたのか! と驚嘆したのもいまはむかしの話だ。
→「書物素晴らし 恋せよ乙女」 本よみうり堂

なぜこんなことを書いたかというと、本を読んでいてアホらしくなったのがかなり久々の体験だったから。本書を20ページくらい読んだところで読むのをよそうと思ったのだけれど、佐野洋子さんの言葉を思い出して最後まで読んだ。たまに毒づきながら。

誰でも一度は行ったことがあるかもしれない合コンというイベントを社会学的な見地から分析した一冊。合コンはただの出会いのための飲み会ではなく、社会階層によって人間を分断/結合するひとつの制度であると述べる。合コンの場において、男女は同程度の階級に属する相手とくっつく、と(結婚を前提とした恋愛においては、合コンに限らずそういうものだと思うが)。

合コンを制度と喝破したのはよいと思った。しかし、この本で扱われる合コンは「確実に相手を求めていく合コン」であって、「楽しむための飲み会的合コン」ではない。自分にとっての合コンは後者に近い。見知らぬ異性との出会いを期待しつつも、まあ楽しく飲めればそれでいいやという感じで参加してきた人間としては、合コンで恋愛相手どころか結婚相手を探そうとする本書の被調査者たちに非常に違和感を覚えた。合コンって、そんなマジになるものだったのか、と。

本書への不満は、本書の内容もさることながら、それ以上に本書の被調査者たちのあまりに幼稚というかロマンチックというか、純朴さに向けられる。彼らは合コンで「運命の相手」と出会いたいのだという。ある被調査者の言葉。
「知り合いの女の子の口癖なんだけど、お医者さんとか弁護士さんと結婚したいけど、それを求めて合コンに行くっていうよりは、好きになった人がたまたまお医者さんだったりするのが理想なんだって。偶然の出会いだったと思いたいみたい」
(男性・二〇代・会社員)


アホか、といいたい。医者か弁護士がいいなら合コンよりも結婚サービスを利用したほうがずっと効率がいいに決まっている。そこならはじめから相手の職業が、それのみならず学歴や容姿や年収や趣味や性格にいたるまで分かるようになっているのだから、狭い交友範囲の延長線上にある合コンよりもはるかに合理的かつ可能性が広がっているというのに。しかし、著者らはこういう意見を否定する。
(引用者注:結婚サービスのような)互いのことを少しずつ知りあったり、相手の気持ちをさぐってみたり、気持ちを言葉にして伝えたりすることもなく、すいすいと進む関係にゲームの楽しみは少ない。言い換えれば、合コンで体験するあの高揚感と緊張感が、ない。
そんなものなくてよいと言う人たちなら、お見合いのときを含めて二回会っただけで死ぬまで連れ添う戦前の夫婦のように、幸せに暮らしていけるだろう。それではつまらないという二〇〇〇年代の私たちには、やはり、恋愛というスリルが欠かせない。もしかしたら、と期待する。偶然に出逢い、恋に落ちる。合コンはこの偶発性も約束してくれる。

本気で結婚相手を探しているのなら、「ゲームの楽しみ」とかいっている場合ではないと思うのだが。また「戦前の夫婦」は引用のとおりかもしれないが、いまどきの結婚サービスはあくまで出会いを提供するだけで、たとえば「友人の紹介」とさして変わりはない、というふうに聞いているのだが、どうなのだろうか(べつに結婚サービスの回し者ではありません。念のため)。
「スリル」はどうかしらないが、効率的に出会いたいと思うなら合コンはあまり合理的ではないように思う。単純に。結婚サービスなら、合コンで起こりえるような「来た男が全員フリーターだった」みたいな事態は確実に避けられるわけだし。

「本気の(とあえて括弧をつける)」合コンはゲームというより戦争だ。戦略をしっかり立て、不測の事態にも柔軟に対応しなくてはいけない。同性同士の息の合った連携プレーも要求される。
「合コンの法則って言っても一定ではない。今日は自分のキャラは何でいくかを、その場のノリで見極める。全包囲網、オールラウンドなのは聞き役。これはどうでもいい合コンのとき。でも、絶対落としたい子がいるときには決めキャラが必要。ピンポイントで当てないといけないから、相手の好みを見極めて自分をつくっていく」
(男性・二〇代・会社員)


「あえてスカートとアンサンブル、みたいな合コンっぽい格好で行く。相手がそれを期待しているんだからととりあえずそれにあわせておく。……もし気に入った人がいたら、合コンではその人にはしゃべらせない。自分のプライベートな過去のこともどんどん話して、さばけた子だなと思わせる。それで、もう一回会いたい、と思わせる。男の人はしゃべりたがりだから、自分の話ができないと絶対に次、と思う」
(女性・三〇代・会社員)


「合コンは機嫌悪そうにしてるときのほうがうまくいく。機嫌悪そうにしてると、誰かが盛りあげ役になってくれるから。でもそればっかりしてると友だちに嫌われて合コンに呼ばれなくなるから、やっぱり盛りあげ役を演じることも必要。そういう役割分担ができる男の友だちをたくさんストックしておき、事前に打ち合わせをしておく」
(男性・三〇代・会社員)


……どうでしょうか。読んでいてアホらしくなってきませんか。少し悲しくなってきませんか。お疲れさまです、とねぎらってあげたい。しかし三〇代にもなって合コンの戦略を得々と語らないでほしい……。
さらに続けます。

「合コン中は忙しい。自分のことだけじゃなく、他の女の子とも協調していかないといけないわけだから」
(女性・三〇代・専門職)


「(引用者注:仲間同士でのサインには)あまり頼まなそうなものを使う、たとえばモスコミュールを頼んだら席替えがしたいって意味、アイスティーって言ったら帰りたいっていうサインとか。あまりにも相手がひどいときは、始まっていきなり『アイスティーはある?』って言ったり」
(女性・三〇代・会社員)


男どうしで決めておくサインはある。コースターの上にナプキンを敷いたら、とか、箸の角度で判断する、とか」
(男性・三〇代・専門職)

戦争はたいへんだ。


いちいち細かく書いていたのではきりがないので、本書の被調査者たちに顕著な「運命の出会い症候群」とでも名づけたい特性について。
端的にいうが、運命の人なんてどこにもいない。以前にブログ「坂のある非風景」の記事「愛することは失い続けることなのか 」にしたコメントの繰り返しになるが、大多数の人間にとっての恋愛は、かけがえのない唯一者とのそれではなく、代替可能な群集の中の一人とのそれに過ぎない、と思っている。その延長線上にある結婚もしかり。職業や、年収や、容姿や、趣味嗜好などによってある一人を選別したとしても、その人はべつの誰かでも構わないのだ。それを不可能にしているのはわれわれの人生は一度きりで、過去はやり直しがきかないという時間的制約と、基本的には同時に複数の人間を絶対的に愛することは困難だという感情的制約(?)による。われわれ人間の生が非常に限定的かつ不完全なものである以上、われわれの愛もまた限定的かつ不完全なものにならざるを得ない。

けれども決して悲観に傾きたくてこう書いたのではなくて、わたしが嫌悪するのは、運命というものがどこかではたらいていて、テレビの安っぽい恋愛ドラマのような出会いのシチュエーションを提供してくれるのではないかとあくまで自分の外部に期待を寄せる心性だ。「この人がおまえの愛すべき人間だ」と有難くも運命が提供してくれる唯一の人間を愛することよりも、他の誰とでも代替可能な無数の人間のなかから、この自分が選んだ一人を愛することのほうがはるかにロマンチックだと思うし、また、ニーチェ的な意味でいうならそこにこそ運命はある。この人を愛する、と意志したとき、そこに運命は生起している。そう、愛とは意志の問題なのだ。説教臭くなるのでこんなことは書きたくないが(あとで削除するかもしれない)さいきん目につく「愛され」だの「モテ」だのいう語の何が不快かというとそれが徹底的に受動的なところで、ここでは愛は意志の問題だということが完全に閑却されている。愛は愛することからはじまるし、それによってのみ持続する。それを運命というなら運命といってよいと思う。自分の選択した運命、という意味で。しかし何か超自然的現象めいた運命の出会いというシチュエーションを期待する心性には、愛を求めながらも意志するのは面倒くさい、というような怠け心が垣間見える気がしてならない。(わたしも含め)怠け者は恋愛には向いていない。怠け者でも恋愛をはじめられはする。しかし怠け者は恋愛を持続させることができない。そして持続によって愛は幾度も主体に試練を課す。

持続、と書いて思い出すのが、サン=テグジュペリの『ちいさな王子』に出てくるバラだ。王子が世話したバラは、王子以外の人が見たらほかのバラと見分けがつかない。もっときれいなバラはほかにいっぱいあるかもしれない。けれど、そのありふれた一輪を「時間をかけて世話したからこそ」王子のバラは王子にとってとくべつなバラになったのだ。それを人間関係に置き換えてみる。あの物語は、本当に、深い。


しかしそもそも愛なんてとても曖昧なもので、寂しいからそばにいてほしいと思う気持も、あなたと楽しく暮らすために一生懸命働こうと思う気持も、セックスがしたいと思う気持も、どれも愛と呼びたければ呼べるのだ。その言葉を重くとりすぎてはいけない。もう少し軽くしてあげよう。

そして何度でもいいたい。運命の人なんていないが、運命の人はいる、と。自分がこの人を愛すると決めたとき、その人は運命の人になるし、それ以外のあらゆる意味で運命の人なんていやしない。図書館で同じ本を同時にとろうとした人との出会いが運命であるのなら、学校や職場で一緒になるというのも運命なのであって、そもそも一回限りという限定つきで生まれてきたいのちにとって、この世に運命でないものなんてあるのだろうか。


本書の被調査者たちに、『ブラスト公論』を読め、と強く勧めたくなった。


4334034322合コンの社会学 (光文社新書 331)
北村 文 阿部 真大
光文社 2007-12-13

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あ、これは運命の恋のお話だった。わたしの主張と対立するがまあいいや。この話はべつに好きではないから。
4061272748100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))
佐野 洋子
講談社 1977-01

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『ねこ』よりこのエッセイのほうがはるかに感動的だった。
4480031537私はそうは思わない (ちくま文庫)
佐野 洋子
筑摩書房 1996-02

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生は一度きり。新訳が出たが、思い入れのある旧訳版を。
4087603512存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン クンデラ Milan Kundera 千野 栄一
集英社 1998-11

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愛には責任がともなう、とも書いてある。
4334751032ちいさな王子 (光文社古典新訳文庫)
サン=テグジュペリ 野崎 歓
光文社 2006-09-07

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自由とは、自分を束縛する強迫観念から解放されることじゃね? とかいってみる。
4401619951ブラスト公論―誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない
宇多丸; 高橋 芳朗; 郷原 紀幸; 前原 猛; 古川 耕
シンコーミュージックエンタテイメント 2006-03-01

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
>怠け者は恋愛には向いていない。怠け者でも恋愛をはじめられはする。しかし怠け者は恋愛を持続させることができない。

これは素晴らしい。けだし名言ですね。どこかで使わせてもらおうっと。
私は「100万回生きたねこ」好きです。あれは100万回くらい生きなければ運命の人には出会えないという話ではないかと思います。
piaa
2008/04/01 00:39
>piaaさん

記事に書いた「怠け者」とは特定の人と関係を持続させることを重視できない人間のことです。ちょっと言葉が強すぎたかもしれません。
恋愛、あるいは愛と呼ばれるものを従来より軽く考えたいと最近の自分は思っていて、その気分がもろに出た記事になりました。

わたしの好きな吉田健一は恋愛についてはこんなふうなことを述べていました。
「恋愛は所詮恋愛でしかないのであって、それがあたかもすべてを与えてくれるかのように錯覚すれば幻滅するに決まっている」
これこそ真の名言だと思いますよ。
epi
2008/04/01 22:24

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