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zoom RSS 『夜の果てへの旅』 セリーヌ

<<   作成日時 : 2008/05/17 00:00   >>

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黒く塗りたくること。自分をも黒く塗りたくること。

主人公のフェルディナンは世界を遍歴する。パリから第一次世界大戦の戦場へ、アフリカへ、ニューヨークへ、そして再びパリへ。そのいずれの場所も彼に嫌悪を催させ、絶望を与える。戦場では傷を負い、アフリカでは熱病に冒され、ニューヨークではフォードの工場でへとへとになるまで働き、パリの場末町では貧窮と悪意のうちに蠢く人間たちのあいだをさまよう。

弱さから、あるいは鈍さから、見ずに済ませてきた現実。セリーヌは容赦なくこの世界の伏せられた一面を抉り出す。病根を探り、メスで傷口を開く医師のように。
もひとつ悪いことは、前日やったことを、明日も続ける力を、どうやって見つけだせばよいかわからないことだ。うんざりするほど昔からやりつづけてきたことを、その愚かしい行動を続ける力をどこで見つけだすか、要するに、なんの成果もない数々の計画、重苦しい宿命からのがれるための試み、常に挫折に終わる試み、どれもこれも、運命は逃れがたいことを改めて確認させるだけの試み。結局、日増しに心もとなく、不愉快になっていく明日への不安に圧しひしがれ、夜ごと夜ごと、部屋の床の上にぶっ倒れるだけが落ちだ。
おまけに年齢というやつが、あの裏切り者がおどり出し、最悪のもので僕らを脅かしかねない。要するに、自分のうちに生命を躍らせる音楽が鳴りやんでしまったのだ。冷酷な真相につつまれたこの世の果てへ、青春は跡形もなく消え去ってしまったのだ。ところで、自分のうちに十分な熱狂がなくなれば、いったい、外へ飛び出したところで、どこへ行くあてがあるのか。現実は、要するに、断末魔の連続だ。この世の現実は、死だ。どっちかに決めねばならない。命を絶つか、ごまかすか。僕には自殺する力はなかった。


人生に失望し、他人や社会には憎悪と嫌悪しか感じないフェルディナン。彼の目には甘い幻想など映らない。そしてこの小説の凄みは著者がペシミズムに惑溺していないところにある。セリーヌ=フェルディナンの、世界に放たれる呪詛の背後には狂おしいほど愛を求める人間のやりきれない切なさがある。フェルディナンは幾人もの女と付き合うが彼女たちに安らぎを見出すこともできない。
列車が駅にはいった、機関車を見たとたん、僕はもう自分の冒険に自信がなくなった。僕はやせこけた体にあるだけの勇気をふるってモリーに接吻した。こんどばかりは、苦痛を、真の苦痛を覚えた。みんなに対して、自分に対して、彼女に対して、すべての人間に対して。
僕らが一生通じてさがし求めるものは、たぶんこれなのだ。ただこれだけなのだ。つまり生命の実感を味わうための身を切るような悲しみ。


タイトルに象徴される夜の果てとは夜明けではないだろう。そこは究極に行き着く場所、つまりは夜のもっとも深くて暗いところだろう。そこでは人間が自らの欲得のために恥も外聞もなくひしめき合い、愛は金に蹂躙され、社会は弱い者たちを圧し潰す。

このセリーヌをもっと若い時期に読んでいたらあるいは世界観を刷新されたかもしれない。しかし今の自分には決定的に訴えてくるほどではなく、むしろ彼の後裔というべきブコウスキーのほうに強く惹かれる。原文は俗語を多用した独特の文体で書かれているそうで、生田耕作氏による訳文ではその片鱗らしきものが味わえる。

それにしても救いがない。甘さとは無縁の書物だ。ある属性の人たちを魅了するのもわかる気がする。


4122043042夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)
セリーヌ Louis‐Ferdinand C´eline 生田 耕作
中央公論新社 2003-12

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4122043050夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)
セリーヌ Louis‐Ferdinand C´eline 生田 耕作
中央公論新社 2003-12

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