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zoom RSS 『バーデン・バーデンの夏』 レオニード・ツィプキン

<<   作成日時 : 2008/08/02 00:00   >>

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ソ連の医師ツィプキンが残した、ドストエフスキーをめぐる不思議な小説。

小説は螺旋のような二重構造になっている。
小説の話者「私(ツィプキン)」は1960年代もしくは1970年代のある冬、モスクワ発の列車に乗ってサンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)へ向かう。ドストエフスキーの愛読者である彼は、敬愛する作家ゆかりの地を訪ねる旅行の途次にある。
同時進行で、1867年の夏、二人目の妻アンナとともに西欧への新婚旅行に出発したドストエフスキーの消息が語られる。ドイツの保養地バーデン・バーデンやドレスデンを訪れた夫妻の旅行は決して穏やかなものではない。作家の異常なまでの賭博熱と若い妻に対する嫉妬、分かり合えぬがゆえの夫婦の諍い、そして性愛。自ら破滅を招くような愚かな賭博者である夫に対して怒りを覚え、ときには涙しながらも、金がなくなったといえば結婚指輪までも質に入れて金をつくってやる妻アンナ。彼女の、何があっても最終的にはドストエフスキーを受け入れる大きな愛は、この二人の旅路を綴るツィプキンの思慕に繋がる。彼は深く、作家ドストエフスキーを愛しているのだ。

しかしツィプキンによるドストエフスキーへの愛は決して単純ではない。ツィプキンはユダヤ人であり、そしてドストエフスキーはこれほど偉大な作家でありながらあまりにも浅薄な反ユダヤ主義者だった。革命前に出版されたドストエフスキー選集の一冊を何気なく開いた「私」は、そこに収録された反ユダヤ主義の言説を読み、あらためて傷つく。「小説のなかではあれほど他人の苦しみに敏感で、辱められ傷つけられた人たちを熱心に擁護し、生きとし生けるものすべてが存在する権利を熱烈に、いや激烈ともいえるほどに説き、一本一本の草や一枚一枚の葉への賛辞を惜しまなかったドストエフスキー――そのドストエフスキーが、数千年にもわたって追い立てられてきた人々を擁護したり庇ったりする言葉をただの一言も思いつかなかったのはいったいどういうことなのか」と。
ドストエフスキーは小説のなかで何度も「ユダヤ人ども」だの「ユダ公」だのと書いている。にも関わらずツィプキンを含めユダヤ人たちはドストエフスキーを熱心に読んできたし、当時のすぐれたドストエフスキー研究者たちの大半はユダヤ人であったというのはどういうわけなのだろう。ツィプキンは考えるが、その答えは出ない。彼の、ドストエフスキーという大いなる矛盾を抱えた作家への愛は、報われることのない恋人のそれによく似ている。

サンクト・ペテルブルグに到着した彼は知人宅に寄宿し、カメラを携えて作品のモデルとなった場所へ向かう。「ラスコーリニコフの家」、「ソーニャの家」、「高利貸しの老婆の家」…。「聖地巡礼」のためモスクワからやってきた「私」を泊めてくれたのは彼の母の親友の女性で、彼女は用意しておいた豪華な食事を提供して、「私」にこう問う。
「まだあいかわらずドストエフスキーに夢中なの?」

同時進行で語られる、約100年を隔てた二つの旅――ドストエフスキー夫妻の西欧旅行と、作家ゆかりの地を訪ねる「私」の旅――は、「私」が、いまはドストエフスキー博物館となっている作家の家を訪れ、彼の死を描くことでひとつに溶け合う。プルーストや吉田健一を思わせる非常に長い文章と、多用されるダッシュ(―)によって、読者は不思議な幻想の世界へ誘われ、恍惚とさせられるだろう。
職業作家ではない医師による本作がこうして読めるようになったのは、ロンドンのチャリングクロス街でこの小説を偶然発見したスーザン・ソンタグのおかげだ。彼女はこの無名の小説を読んで深い感動を覚え、「世紀の文学」とまで絶賛している。本書には彼女による紹介文が付録として掲載されており、ここで作者の経歴や、当時のソ連の出版状況について理解することができる。

一人の作家に心奪われるということ。しかもその作家は彼の民族を侮蔑している。にも関わらず、どうしても愛することをやめられない。この複雑な感情を文学として結実させたツィプキンの、彼の作家としての力量以上にその深い想いに感動した。


ところで先日、ブログ「痛いニュース」に以下の記事の紹介があったのだけれど、これってツィプキンとしていることは同じだ。ただアニメはドストエフスキー文学よりも低く評価されているというだけのことだろう。
→らき☆すたファンの会社員(48)「給料の2カ月分を鷲宮の聖地巡礼で使った」
個人の趣味だし、叩くようなことではない。でも他人にいいにくいのはたしか。趣味なんてそんなものだ。


4105900668バーデン・バーデンの夏
沼野 恭子
新潮社 2008-05

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