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zoom RSS 『桜の園』 チェーホフ

<<   作成日時 : 2008/09/13 00:00   >>

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チェーホフ最後の戯曲。四幕の喜劇。

南ロシアの春。広大な桜の園に数年ぶりに女主人ラネーフスカヤ夫人は帰ってきた。子どものころから過ごした懐かしいわが家。しかし、金銭の管理にだらしなく、夫の死後は愛人とともにパリに渡っていた女主人を待っていたのは厳しい現実だった。財産の大半は失われ、そのために自慢の桜の園は抵当に入れられ、競売にかけられようとしている。夫人の二人の娘、彼女の兄たちは知恵を絞って桜の園を守ろうとするが決定的な解決策は得られず、いよいよ競売の日、一人の男に落札されてしまい、夫人も、彼女の兄も、二人の娘たちも、みなかつての貴族的な暮らしと別れを告げ、ばらばらになって、それぞれの人生を自分の足で歩むことになる。

裕福で幸福だった日々との決別。零落した貴族一家が直面する過酷な現実。
中天で明るく輝いていた太陽がやがて傾き、西空に沈む直前の息を呑むような赤さを想起させる展開(登場人物の一人に「夕方の太陽のような」という台詞がある)のこの戯曲がなぜ「喜劇」なのか。読んでいくと冒頭近くから、登場人物たちのやりとりがちぐはぐなのに気づく。ある人物にとっては重要な事柄が、それを聞かされる別の人物には通じなかったりする。ラネーフスカヤ夫人の身内はなんとか桜の園を手放さずにすむ方法を考えるものの答えは出せず、非現実的な空想や「神様がなんとかしてくださる」と手段を講じること自体を投げてしまったりするだけで、実業家ロパーヒンによる現実的な提案は一蹴してしまい、彼を呆れさせる。自分たちのことなのに危機意識が希薄で、夫人たち一家の、自分たちの領地が他人のものになるという現状に対する現実感の欠如が強調される。
ロパーヒン 失礼ですが、お二人のように呑気な、浮き世離れしたお方には、これまで出会ったこともありません。お宅の領地は売られるんだと、こうしてちゃんとロシア語で申しあげているのに、まるっきりおわかりにならない。

このロパーヒンの苛立ちは当事者に好意的な人間ならば当然の感情だ。
訳者によると、当時のロシアにおいて領地喪失という「悲劇」は日常的なものだったという。当事者たちにとっての「悲劇」は、視点を異にする者にとってはありきたりな退屈な日常でしかない――すなわち、「この主観と客観の食い違いこそが、チェーホフをして『桜の園』を『喜劇』と呼ばせる所以であった(訳者)」ということだ。ありきたりな退屈さ――そういえばこの戯曲の登場人物たちはなんと多く欠伸をしていることか。
現代の人間なら、古い生活をなくしたところでまた新しいやりかたでどうにかこうにかやっていく――それを「ドラマ」などとは大仰すぎてとても呼べなくて、運命の変転は喜劇(的)と形容せざるをえないのではないだろうか。身から出た錆ならばなおさらに。


戯曲は最後に新生を暗示させて終わる。しかしそれが明るい未来であるのか、暗い淵への転落であるのか著者は留保する。観客(読者)の想像に委ねるのみだ。沈む夕日は夜に姿を隠し、再び昇る。だが人の生は太陽ではないし、喩えを持ち出すことはできない。そして比喩によって生を語り、示すのも喜劇的に過ぎるのかもしれない。


4003262255桜の園 (岩波文庫)
チェーホフ
岩波書店 1998-03

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太宰のこの小説には『桜の園』の影響が顕著だとよくいわれる。
4101006024斜陽 (新潮文庫)
太宰 治
新潮社 1950-11

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