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トゥルゲーネフ中期の円熟を示す二篇を収める。 「片恋」は作者の代表作である『初恋』と同じく、語り手の回想によって若き日の恋が物語られる。 ロシアからドイツへ気ままな旅をしていた当時25歳の語り手は、ある町でロシア貴族の兄妹と知り合う。外見は似ておらず、どこか見る者に違和感を抱かせるこの兄妹に惹かれた語り手は、彼らの宿をたびたび訪問するほどに親しくなる。この妹アーシャは純真でありながら時折激しい気性を垣間見せ、その教養や素行は貴族の出自とは思えない。やがて兄から、妹は腹違いで妾腹の子だと告白された語り手は、衝撃を受けると同時に彼女に恋をしているのを自覚する。アーシャもまた語り手に惹かれていたが、情緒不安定な妹がこの恋愛によって心乱されるのを恐れた兄は、妹を連れ、語り手に黙って宿を後にする。語り手はアーシャの後を追うが結局再会はかなわず、それきりになってしまった女の面影を諦念とともに懐かしむ。 「ファウスト」はゲーテの同名の悲劇の主題を変奏したもので、豊かな感受性と優れた知性と教養をもちながら、母親の徹底して現実的な教育によって人生を歪められた一人の女の悲劇的な生涯を描く。 今は中年の語り手が青年だったころに恋した女、ヴェーラ・ニコラエヴナはかつての同級生の妻となっていた。語り手はこの夫を通じてヴェーラと再会する。彼女は今では子どものいる身だが以前と変わらず若々しい。彼と彼女は親交を深めるにつれ互いに惹かれ合っていくのだが、最後には無残な結末を迎えることになる。 この二篇を読んで心を動かされるのはトゥルゲーネフ一流のいきいきとした風景描写にある。木の葉擦れの音や川面に反射する陽光、晴れた空を横切る鳥や、遠い窓に灯った明かり。月に照らされたライン川を、流れのままにたゆたう小船に揺られるように、しみじみとした感懐を抱かせる味わい深い筆致に長嘆息せずにはいられない。風景描写は退屈だなどと誰がいうのか。トゥルゲーネフの風景描写は見事な詩だ。 そして二篇に共通しているのが回想の形式だ。語り手はどちらも中年で、そこから過去を振り返っている。諦念に満ちた人生観照の視点から描かれる瑞々しい恋の記憶だが、驚くべきことにこれらを書いていたときのトゥルゲーネフは30代の後半だった。人生の酸いも甘いも知り尽くした老人のような視点は、訳者の言葉を借りるなら痛ましさすら感じさせる。苦い経験を舐めたひとなのだろう。 さて先日、じつに数年ぶりに初恋の女と再会する機会があった。恥ずかしげもなく以前に書いたが彼女は管理人にとってのシルヴィだった。しかし数年ぶりに見た彼女は外見こそ華やかになってはいたものの、こうあってほしいと(勝手に)期待していたイメージとは似ても似つかない女になっていたのは残念だった(身勝手な妄想でしか女をイメージできないキモチワルイ男)。予期してもいたのでさほど失望はしなかったけれども、女と喋りながら、かつて思いを寄せたあの少女はどこで殺されてしまったのだろうとふと不思議になった。彼女の目をよくのぞきこめば、そこに、あのかわいらしい、よく笑った少女の亡骸が見えたのだろうか。今となっては、自分が愛した女は実在したのか、それすら怪しく思われる。 「ファウスト」のヴェーラは物語の最後で死ぬ。もはや別人のように窶れ、寝台で意味不明なうわ言を繰り返すだけの彼女を黙って見つめるしか術のない語り手の心境は、よく変貌した初恋の女に困惑し、半ば予期していたことではあったけれども、やはりかつて恋した少女はもう死んでいて、この世の人ではないのだと落胆せざるを得なかった管理人には理解できるつもりでいる。 それで、蒼い顔をした哀れな、貧相な人間で、 何かを失った気がするが、雨が窓を叩いているだけだ。
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そうして二度目の失恋が、一度目の失恋を見事に反復する
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坂のある非風景 2008/11/26 22:53 |
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