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zoom RSS 『モードの迷宮』 鷲田清一

<<   作成日時 : 2009/01/08 00:00   >>

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衣服の遊びはもはや存在の賭け、悲劇の世界の苦悩に満ちた問いではなくなっている。遊びは単なる記号を集めた鍵盤となっており、本当は決して変わることのない一人物がただその日一日の楽しみのために一記号を選び出すのだ。それは、自分を多数化してみることができるほど裕福で、決して自己喪失する恐れがないほどに安定した人物のための、最後のぜいたくである。ご覧のようにモードは、人間の意識にとってもっとも重大な主題(《私は誰か?》)と「遊んで」いるのだ。

ロラン・バルト『モードの体系』


ファッションは自ら創出したものを自ら裏切り、設定したものを瓦解させる。たえずおのれを超え、はみ出てゆこうとする。新しく生まれたモードは定着するとすぐにそれを破壊にかかる。そう、モードはつねに更新することを宿命づけられた「死と再生の循環運動」だ。著者は不均衡(ディスプロポーション)というパスカルの語を鍵にして、螺旋のような合わせ鏡のような永遠の円環構造の「モードの迷宮」の奥へと分け入っていく。

モードはその時代の空気を的確に読み取り表現される。かつてヴィクトリア朝時代の女性たちは窮屈なコルセットを腰に巻きつけ、ほっそりした身体のラインを誇った。それが当時のモードだったためにそうしたのだが、代償として血流を悪くし、横隔膜を圧迫して呼吸を苦しくさせ、ほかの内臓器官を歪め、圧迫した。しかしコルセットが象徴する「慎み深さ」こそヴィクトリア朝時代の空気だった。ために女性たちはこの拘束具のような下着をはめるのを自ら望み、なかには外科手術で肋骨を切除する者までいたという。愚かなこの時代を嗤うのはたやすい。しかしモードの構造はこれを嗤うことを許さない。コルセットは極端にしても、われわれの時代にも身体の自然に背くアイテムには事欠かないのだから。たとえば、ハイヒール。美しい造りをしているが踵を持ち上げて爪先部分で歩くのが膝にどれほど負担を強いるか。知人の年配女性は若いころにはき続けたハイヒールの負担がもとで片足を引きずっている。そもそも靴のフォルムが人体の自然に背いているのだ。人間の足は踵から爪先にかけて広がっているのに靴は紡錘形をしているのはどういうわけか。

衣服は体を覆う。覆う衣服によって逆に晒すことにもなる。襟を広く開いたブラウス、スカートに入ったスリット、脚を淡く光らせるストッキング。隠すことが晒すことになり、それが男たちを誘惑する。ファッションのもつこうしたねじれた構造については『ちぐはぐな身体』にも述べられていた。「秘部」はむき出しにされてはいけない。あらわにしてゆくという物語の内部にのみ「秘部」は存在するのでこの物語の外部にあっては白けた空虚でしかない。だからスカートの丈は長すぎても短すぎてもいけないだろう。

人間の表面を覆う皮膚にタトゥーやピアスといった整形を加えることからも明らかなように皮膚こそが第一の衣服であるといえる。誰しもが鏡に写った自分に(他人からすれば何でもないのに)小さな不満をもっているだろう。あるいは写真に写った自分の姿に。それを整形しようと試みるとき、その人は自分にファッションを従わせるのではなくファッションに自分を従わせているのだ。ダイエットや美容整形に励む人の脳裏には確固たる美のイデアがあるのかもしれないが、モードは生き物であっていずれ現在は廃れ過去となる。遺棄されたモードの残骸は顧みられずにひっそりと朽ちてゆくしかない。モードは蝶の羽の色のように華やかであり、また儚い。それにしても自分でありながら自分でないように感じられるこの私とは何なのか。裸で外を出歩くわけにはいかない以上、ファッションは不安定な自我を固定させる装置として非常に有効なわけだがこの装置は人を固定化させつつもたえず翻弄しようとする厄介な代物だ。巻末に引かれた引用を身につまされない読者はいないだろう。

人間は、あるときは彼自身でありあるときは彼自身ではないような――人間がそういう風に感じるわけだが――何かある力と悲劇的な関係を結んでいる、と信じることができる。

ジュール・モヌロ『超現実主義と聖なるもの』



さて皮膚が第一の衣服だというのなら、衣服は第二の皮膚であるともいえるだろう。しかし自分の気分と身体の両方にしっくりくる、満たしてくれる衣服には滅多に出会えない。というかそんな服をもしかしたら未だ一着ももっていないかもしれない。既製品を着るしか脳のない人間だからやむを得ないのかもしれないが、せめてスーツやワイシャツくらいは吊るしではなくオーダーで作ろうかと考えている。
ファッションは難しい。自分が着たいと思う服と自分に似合う服とは別物であるということに気づくのにどれだけの時間と金を無駄にしたことか。せっかく買ってもろくに着ないで捨ててしまった経験もある。しかしそれでもファッションから関心を捨てられないのは、それが《私は誰か?》という問いと密接に結びついているからだろうし、また自分の好きな服を着ることの心地よさは、旨いものを食うことと同じくらいに人生の幸福であると考えているからだ。


4480082441モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)
鷲田 清一
筑摩書房 1996-01

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