epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『愛する人を所有するということ』 浅見克彦

<<   作成日時 : 2009/01/15 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

恋する者に常にみられる考え方。あの人には、わたしの必要とするものを与える義務がある

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』


どうして人は他者を愛してしまうのか。そして愛した他者を所有しようとしてしまうのか。それは恋を殺してしまうかもしれないほどに危険な願望であるのに。その問いに対するひとつの答えを示してくれる感動的な書物が本書だ。愛について真摯に考えたい読者の胸をきっと打つだろう。

そもそも他者を愛するとはどういうことか。著者は述べる。
じつのところ、愛とは、他者の存在に吸引される関わりのさなかで、自我が危機に瀕した同一性と自存性を保持せんとしてとる反応機制に与えられた名にほかならない。自我の存在を脅かす他者との交わりのカオス、これをくぐりぬけて自我がその存立を確保しようとする関係の構図こそ、愛なるものの実相なのである。

人の性は他者を求めてやまない。そして出会う。心揺さぶる誰かと。彼は彼女に惹かれる自分の気持をどうしようもない。他者の魅力に囚われた者はやがて自分を自分の目で見ることをやめてしまう。それまでは鏡の前で「このネクタイは自分に似合う」と思っていた彼が、彼女に囚われてからは「あの人はこのネクタイをどう思うだろう」と考えるようになる。自分を他者の目で眺めるようになれば自我は自己と他者とのあいだで引き裂かれる。すると当然ながら精神状態は不安定になる。彼女の言動や表情に振り回され、そこに意味を読み取ろうとする徒労の試みがなされ、落胆と高揚に縛られる。しかしこれは感情の混沌であって愛ではない。

はじめに愛があるのではない。とらえがたい衝迫によって他者との交わりに吸引されること自体は、カオス的な忘我ではあっても、自我の望みと企ての形をとる愛ではない。そうではなく、他者との関わりのカオスにのみこまれる崖っぷちで、あくまで己れの存在にまとまりと秩序を確保せんとする構え、これを意味づけ自己了解する概念として、自我は愛なるものを立ちあがらせる。愛が自我をその内奥からつき動かして、その意識と行動を牛耳るのではなく、存立の危機を招来する他者との交わりに対して、自我が挑む存在の戦略として、あるいはサヴァイヴァルの「物語」として、愛が召還されるのである。

分裂した自我は、引き裂かれるのを避ける防衛手段として愛と呼ばれるものを召還する。彼は、決して知ることのできない他者の内面を(彼に都合よく)塑造しようとする(「普段は冷淡にしているけれど根は優しい人だ」等)。

そのゆえにこそ、愛の意識と行為は、自我の同一性と自存性の希求に彩られた、他者の存在に対する所有の試みであらざるをえないのである。

彼女に囚われた彼は、彼女に彼の想像を超える、あるいは裏切る存在になられるわけにはいかない。塑造した彼女のイメージが破壊され、愛する彼女とて紛れもない他者であるという冷厳な現実をつきつけられれば自我は再び不安定になってしまうから。だから自我は防衛のために彼女を統制しようとする。彼は彼にとって都合のよいイメージを無理にでも彼女に投影し、その枠内に収めようとする。統御しつくすことなどできない生身の人間を観念的に所有しようとする。そう、「実在的他者に自身の観念的なコピーであることを求め」ようとするのだ。

それを愛と呼ぶのであれば愛とはなんと自己の快楽に彩られた貧しい感情であることか。それは人間をペット化して愛玩するのと同じ構えではないか。「髪を短く切ってほしい」「煙草を吸うのをやめてほしい」……一人の現実存在を自身に都合よく改変しようとするエゴイスティックな感情。彼女が彼女のしたいようにするのを受容しそれでもそばにいたいと思う感情をこそ、愛の名で呼ぶべきではないのか。ここからは倫理の問題となるだろう。

彼が彼女を規定化しようとするのは彼の自我が自らを安定させようとするためだ。彼女が得体の知れない不気味な他者であり、いつ彼を捨てるか、彼を裏切るか、彼から去ってしまうか、たえず不安をかきたてる存在であっては彼の自我は休まれないから。しかし生身の存在である彼女は情況に応じて様々な貌を見せるだろう。理解した、心が通じた、そう思える朝があって、理解できない、気持が届かない、そう思える夜があるだろう。何気ない一言が決定的な亀裂を生じることがありえて、何気ない一言が二人を結びつけることもありえる。生きるとは予期できぬ偶然の世界に身を投じるという必然の賭けであり、愛もまた同様の行為なのだ。「だからこそ、愛の結びつきは、どれほど甘美な実を結んでいるときでさえ、秘められた哀しみの影をひきずっている」。

愛は幻想である。美しい誤解である。そういってもよいのかもしれない。そして愛とはモーツァルトの旋律ではなく、冬の砂漠に吹く風だと知った者が、その舞台から降りたくなったとしてもそれを責めることは誰にもできないのではないだろうか。愛することを放棄し、自我を氷で鎧うことになっても無理からぬことではないだろうか。愛は果てに「愛の不可能」に逢着せざるをえないのだから。
しかし、と著者は述べる。それでも愛することには価値があると。
だが、「愛の不可能」をともに引き受ける自我は、所有的な愛に傾くみずからの性と同時に、それによっては埋め尽くしされえない、脱自的な融合を求める性をも、分裂的にかかえこんでいる。まさにこの分裂したみずからのありようを、一つの原理で統括された同一性へと還元することなく、そのまま引き受ける自我は、まさにその分裂に堪えることによって、所有的な愛によっては埋め尽くされえない一つの間隙を引きずりつづける。自我のうちにある、自存性を追及する傾向と相互作用に吸引される傾向との分裂、ここに、所有的な愛によって埋め尽くされることのない溝が走っているのである。そして、あくまでこの分裂をかかえながら、引き裂かれた愛の苦痛を生きる自我が、所有的な愛に吸いよせられつつも、その欺瞞と不可能を自覚し他者とともに引きうけつづけるとき、そこには、少なくとも倫理から身をそらさないかかわりを、他者とともに生きるという価値があるのではないだろうか。



先日、幼なじみである美しい初恋の女ともう一度会う機会があった。差し向かいになって、彼女が、わたしたちが子どもだったころの思い出を話すのを聞いたとき少しだけだが胸が熱くなった。
「ねえ、わたしたちが何して遊んだか覚えてる? わたしは覚えているよ」
彼女が話してくれたのは、わたしがもはや忘れていることばかりだった。
わたしは思い違いをしていた。シルヴィは死んではいなかった。彼女は今でもわたしのシルヴィだ(そう呼べることがどれほど幸福であることか)。それが嬉しかったから、彼女の電話番号もメールアドレスも聞かずに別れた。知ってしまったら、わたしのこの手が、あの少女の首を絞めることになるのだと理解していたから。これも倫理と呼べるのだろうか。


4787231863愛する人を所有するということ (青弓社ライブラリー)
浅見 克彦
青弓社 2001-07

by G-Tools



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『愛する人を所有するということ』 浅見克彦 epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる