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zoom RSS 『特性のない男』 ムージル

<<   作成日時 : 2009/01/15 00:00   >>

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ジョイスの『ユリシーズ』、プルーストの『失われた時を求めて』と並んで20世紀を代表する未完の長編小説。『ムージル著作集』(全9巻)のうちの6巻。

プロローグをおいて二部構成で中断している。
時代は第一次世界大戦勃発の直前、1913年。舞台はオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーン。本編の主人公のウルリヒは最初は軍人、次には工学を学び、今は在野の数学者として長く過ごした外国からこの町へと帰ってきた。学識があり、才能にも恵まれていながら現世における実利的なものの一切を否定して何ら行動を起こさず、ひたすらに待機の構えを取り続ける彼は「特性のない男」だ。ウルリヒと交友のある芸術家は彼をこう評する。「彼は特性のない男だ!」「無。まさしく無ということだ」

無職で生活の術をもたないウルリヒは高名な法律学者の父親に金を無心して郊外の館に一人で住み始める。息子の将来を憂慮した父親はコネを使って、彼を始まったばかりの非公式の計画「平行運動」に参加させる。「平行運動」とは5年後になる1918年のフランツ・ヨーゼフ一世の即位70周年を記念して行う予定の祝典で、隣国プロシア・ドイツに対抗してオーストリア的なものを称揚するという方針こそ決まってはいるものの、肝心の基本理念はいつまで経っても見つからない。「平行運動」は小説の推進装置として全編にわたるが、参加者が増えれば増えるほどますます会議は混乱し、ときに喜劇的な様相さえ呈するようになる。ちなみに1918年とはオーストリア帝国崩壊の年で、ムージルはこの「平行運動」を皮肉な結果に終わらせるつもりでいたと考えられる。

「平行運動」の主催者は貴族の伯爵だが、会議はウルリヒの従妹であるボーナデーアのサロンで開かれる。伯爵の秘書となったウルリヒはここで、「あらゆる特性をもつ男」アルンハイム博士と出会う。大富豪の御曹司であり、優秀な実業家であり、著名な作家であり、芸術やスポーツにも造詣の深いアルンハイムはウルリヒとは対照的な存在だ。彼は会議の列席者をことごとく魅了し、ボーナデーアは夫のある身でありながら彼に夢中になり、やがて小説が進みもはや「平行運動」の会議が形骸化したのちは、この場を逢瀬の場とするようになる。一向に進展のない会議に参加しつつ、知人や愛人たちと理屈っぽい会話を交わしているウルリヒのもとに父親の訃報が届けられるまでが前半「千遍一律の世」。

後半は「千年王国へ(犯罪者たち)」。
父親が死に、故郷に戻ったウルリヒは幼いころ別々に育てられた双子の妹アガーテと久しぶりに再会する。彼女は既婚者だが夫に愛想を尽かしており離婚する気でいる。父親の遺した多額の遺産を手にした兄妹は遺書を書き換え、アガーテは今しばらくウルリヒとともに暮らし、彼に教育される義務があることにしてしまう。妹に自己愛を見出したウルリヒは、彼女への愛を通じて非所有にして合一的な愛の王国「千年王国」へ彼女と赴くことを夢想するようになる。しかし兄の思惑とは裏腹に、アガーテは偶然出会った男に惹かれる。ボーナデーアのサロンはもはや空騒ぎの場と化してしまい、「平行運動」は頓挫の色が濃くなりつつある。彼女とアルンハイムの関係にも暗雲が立ち込める。「千年王国へ(犯罪者たち)」はここで終わっている。

ムージルは当初、『特性のない男』を短いプロローグとエピローグではさんだ等分の分量をもつ二巻本にする構想を立てていた。第一巻「千遍一律の世」は出版されたものの、その後ヒトラーのウィーン侵攻によりスイスへの亡命を余儀なくされ、窮乏のなかで筆は進まず、1942年4月に脳卒中で逝去する。第二巻は「千年王国へ」の途中までで出版はされたが結局完成しなかった。膨大な量の遺稿が遺され、本『著作集』にはそれらの一部が訳出されている。
本バージョンの『特性のない男』では5巻の途中までが出版された部分で、残りはゲラ刷りになったその続きと、ゲラ刷りの途中から分岐して放棄された章(天才の章)が収録されている。6巻は5巻に収録のゲラ刷りの続きと、ゲラ刷りの途中から分岐してムージルが死の直前まで手を入れていた清書の前段階にある部分と、草稿の一部(Sテキスト)が収録されている。

長い時間を感じさせる読書であり、ひとまず読了するのに四ヶ月かかった。この小説からとくに読み取るべきは歴史認識および時代精神の分析と、愛をめぐる観念的な部分だろう。
ウルリヒの歴史認識はシニカルなものだ。訳者による解説を引用する。
ウルリヒは理念とか理想を軽蔑している。理想は相対観念である。この世には絶対などありえない。しかし人間は自分の理想を絶対化したがる。そしてそれは「権力、暴力」と結びつき、やがて戦争、愚行、憎悪を呼び起こす。そしてそれが世界をつくりかえて、世界を実り豊かにするというのが、ウルリヒのいう「不充足理由の原理」であり、彼の皮肉な歴史観だといえる。

ムージルの歴史認識の一部を挙げる。
(前略)時代と呼ばれているもの――それが何百年のことなのか、何千年のことなのか、あるいは自分の小学校時代から孫の時代までのことなのか一向に知ることなしに、時代と呼ばれているもの――この幅広くて不規則で、さまざまな状況をはらんだ流れは、それを個々に取り上げれば、間違った不十分な解答の努力の無計画な連続をほぼ意味するだろうが、人類はそれらを総括する術を心得て初めて、正しい全体的な解答がそこから引き出せると思われるからである。


(前略)歴史とはなんと奇妙なものであることか! この事件あるいはあの事件のことで、これはかれこれするうちにもう歴史のなかに位置を見出したとか、きっとそのうちに見出すだろうとか、確信をもって主張されたものである。だが、この事件がそもそも起こったのかどうかが、確かではないのである。というのも、ある事件の発生で重要な点は、それが起こったのはある決まった年で、別の年ではなく、さもなければそれは絶対に起こらなかったということだ。また重要な点は、起こったのはまさしくそれで、単に似たこととか同じようなことではなく、つまり千遍一律のことではないということだ。


だから歴史の道は、一度突かれると一定の軌道をとって進む玉突きの玉の道ではなくて、雲の道に似ており、路地をうろついている男のとる道に似ている。ここでは影に出会い、あそこでは人の群れとか家並みの正面の変な建築ミスに出会って方向を変えて、結局は見も知らない、行こうとも思っていなかった場所にたどりつく。世界史の経過には、いわば「道に迷う」といった風情がある。現在とは、どういうわけか今ではもう市内の家には入らない、一番町外れにある家のようだ。


「過去のいろいろな前進への努力のあとで、われわれは退歩の時期に入ってしまいました。それが今日どんなふうになっているか、まあ想像してみてください。――ある重要人物が一つの理念を世に送り出すと、それはたちまち、共感と嫌悪からなる分配過程の餌食になります。まず崇拝者たちは、自分の身丈に合うような大きさの断片をそれから引きちぎり、腐肉にたかる狐さながらに、彼らの巨匠をばらすのです。すると今度は敵対者が、その理念の弱い箇所に壊滅的な打撃を与えます。そしてまもなく、味方と敵とが自分らに都合よく利用できるような警句のストックつくり以外には、もうなんの仕事も残らなくなるんですよ。結果は全般的な意味の曖昧さです。今では、ノーが伴わないイエスなどこの世にはないのです」


「閣下はご存知です――世界は、昨日しようと思ったことを、今日はもう忘れているということを。世界には、充分な理由もなしに交代する気分があるということを。世界は永続的な興奮状態にあるということを。世界はけっして結論には達しないものだということを。そしてもし、人類の無数の頭のなかでこのように起こっていることが、人間一人の頭のなかでまとまって起こると考えるならば、その頭は、知能障害とみなされている有名な欠落症状の連続を、事実紛れもなく示すものになるでしょう……」


「この世では全体が個に優先している」とムージルは述べる。世界と歴史のなかに放り出されたちっぽけな個人の存在を思い浮かべる。そして「千遍一律の世」といい、この言葉によって別の作家の顔を思い出さずにはいられない。ミラン・クンデラだ。彼の抱くシニカルな歴史認識と、「存在は一度きり」というあのフレーズ。クンデラはムージルやブロッホに親しんでおり、彼らから多くを学んでいるだろう。

『特性のない男』は愛を探求する男の物語でもある。若き日のムージルは一人の女優に恋をしてこれを「ヴァレリー体験」と名づけたのだが、この体験の解明と言語化が彼の生涯の仕事だったと訳者は解説する。「千遍一律の世」にはかつてウルリヒがある夫人へよせた恋のエピソードが披露されるのだが、この部分は愛を観念的に考察する際に多くの示唆を与えてくれるだろう。そして先日読んだ『愛する人を所有するということ』でもふれられた、愛と所有の問題にも及ぶ。

浅見克彦氏は『愛する人を所有するということ』で、分裂した自我が防衛のために相手を所有することで自我は再び安定を取り戻す、と述べていた。愛、所有、自我のトライアングル。ウルリヒの場合はどうだろうか。
ウルリヒは恋の病に陥った。そして純粋な恋の病は、所有への欲望ではなく、この世を覆うヴェールが優しくはがされる状態のことであり、このためなら恋人の所有を進んで断念したくなるほどのものなので(以下略)


そしてウルリヒは彼女に最後の手紙を書き、その中で、「愛のために偉大に生きる」ということは、所有や「わたしのものであってほしい」という願望などとはもともと無縁なものであり、こういうものは節約と横領と大食の領域から生まれるものだと説明した。


浅見氏と比較すると小説的すぎる気もするが、ウルリヒは後半で神秘主義に傾き、観念の世界である「千年王国」を目指すことになる。
「ぼくたちはあらゆる我欲を捨て去ろう、財産も認識も、恋人も友だちも、原則も、そしてぼくたち自身さえも、貯えたりしないだろう。こうすれば、ぼくたちの感覚は人間や動物に向かって解放され、開かれることだろう。そしてぼくたちはもうぼくたちのままでいることはできず、全世界のなかに織り込まれるということで、ただ身を支えるようになるほどに、ぼくたちの感覚は開ききることだろう!」


「アガーテに対して、もう利己心も我欲ももたなくなり、憎悪感も無関心な感情ももたなくなることに成功すれば、まるで磁石の山が鉛の釘を引き抜くように、彼女はたちまちにしてぼくからあらゆる特性を引き抜くことになるだろう! ぼくは解体して、道徳的な意味で根源的な原子状態になり、ぼくはぼくでも彼女でもなくなるだろう! 至福とは、こんな状態なのかもしれない?!」


「千年王国」は個の壁が消滅し、存在がひとつに溶け合う場所。『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編がそういえばそんなだった。

個の壁と、合一への憧憬と。存在とは孤独であり、他者との完全なコミュニケーションなどありえない(あればその瞬間にわたしはわたしでなくなってしまうだろう)。この分裂した状態から解放されるのが「至福」であるのか否かは各人の判断に委ねられる。「愛をめぐる物語」としての『特性のない男』は、ある美しい風景を読者に見せてくれる。合一への希求。それを理想的と呼びたければ呼んでいい。
「いかにもわれわれ人間は、不愉快な世界のなかで、貪欲と力の限りを尽くしてたがいに相手を打ち負かさなければならない有機体だ。だが、どんな有機体にせよ、その敵や犠牲者といっしょになって、この世界の一部分を構成しているのであり、そして、この世界の子供なのだ。おそらくどの有機体も、自分たちが考えているほどには自分の敵や犠牲者から分かたれてもいず、独立してもいないのだろう」





4879841242特性のない男 1
Robert Musil 加藤 二郎
松籟社 1992-07

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4879841404特性のない男 2
Robert Musil 加藤 二郎
松籟社 1992-12

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4879841382ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3
Robert Musil 加藤 二郎
松籟社 1993-05

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4879841439ムージル著作集 第4巻 特性のない男 4
Robert Musil 加藤 二郎
松籟社 1993-10

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4879841552ムージル著作集 第5巻 特性のない男 5
Robert Musil 加藤 二郎
松籟社 1994-06

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4879841641ムージル著作集 第6巻 特性のない男 6
Robert Musil 加藤 二郎
松籟社 1995-04

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エヴァのこの動画はいいなあ。なつかしい。


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