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zoom RSS 『記憶/物語』 岡真理

<<   作成日時 : 2009/01/29 00:00   >>

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それが語りえないことであるのなら、聞く人は耳をそばだてねばならない。

ある人を暴力が襲ったとき、当事者はその暴力のことを言葉で他者に伝えることができるのだろうか。たとえば、戦争。目の前で肉親を殺された者が、その現場を知らない人間にその苦痛、怒り、悲しみといった思いを十全に伝えることは可能なのだろうか。言葉とはそんなにも万能だろうか。わたしたちが他者に、わが身に起きたことを語るとき、そしてそれが自身にとって根源的なことがらであればあるほど、わたしたちが感じるのは言葉が見つからない、もっと適切な言葉が欲しいという焦燥感、またもどかしさではないだろうか。
大仰にいわずともよい。今日あった些細な出来事を明日誰かに話すとして、そしてその聞き手は多少なりともあなたに関心をもっているとしても、あなたは自分の身に起きたことを、それがまさしく自分にとってどんな意味をもって迫ってきたのかを含めて、わが身が感じた通りに他者に語りえると信じられるだろうか。

暴力、ことに戦争という国家による暴力によって理不尽に命を奪われた人々がいて、肉親を失った人々、故郷を追われた人々がいる。わたしたちは彼らから何を聞くことができるだろう。もし、言葉が不完全で、そして伝心も信じられないのなら、そうした暴力の記憶は当事者が死んでしまったら忘却されてしまうのだろうか。語りえぬ人の死とともに暴力的な出来事も死んでしまい、聞きえぬ人々はただ歴史の表面だけをなぞり、「可哀想に」の一言ですべてを片付けて顧みないのだろうか。

おそらくは――残念ながら――そうなのだろう。著者はこう述べてはいないが、わたしはそう思う。言葉のもつちからはあまりに不完全であるし、当事者にしか感じられぬからこそ個人がある。むろん、ときには思いの通じるときがあるだろう。けれども、まったく通じなかったり、あるいは誤解されることのほうがはるかに多いだろう。ある人が死んだとき、その人の世界は死に、その人の言葉も死に、その人にとっての出来事(の記憶)も死んでしまうのだ。

言葉で語られることがすべてではない。出来事を語るとき、わたしたちは語りの隙間から出来事が零れ落ちるのを感じずにはいられない。そして、たとえ相手に通じたとしても、語りえなかった部分が残ったという不全感が残り悄然とせずにはいられない。語られたことの背景にはつねに語りえなかった部分があるという認識を持ち続けること。もし出来事の記憶をわずかでもわが身に引き受けようとするなら、その人はこの認識を、歴史知識と想像力とともに持たねばならないだろう。それは「難民になること」といった抽象的な著者の結論よりは卑俗であり、しかし実践的であると思う。

おそらく出来事の記憶を他者に伝えるのに言葉だけでは足りないのだ。そのためには、人の五感を揺さぶらねばならないだろう。映像や写真が有効な伝達の手段になる。しかし、それでもやはり足りない。「その出来事が、その人にとってどんな意味をもったか」を他者が理解するなどということが、果たして人間に可能なのか。そこには人間存在の限界の一線が見える。


4000264273記憶/物語 (思考のフロンティア)
岡 真理
岩波書店 2000-02

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