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zoom RSS 『夕べの雲』 庄野潤三

<<   作成日時 : 2009/02/10 00:00   >>

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いまという瞬間が過ぎ去ればもうそれは二度と帰らない。

丘のうえの家に引っ越してきた大浦一家の日常を描く。大浦家の家族構成は、作家である大浦と妻、中学生の長女と小学生の長男、次男の五人(小説の展開とともに彼らも年をとる)。おそらくは著者とその家族がモデルなのだろう。昭和30年代から40年代を舞台にしていることを除けば、彼らの日常はわれわれとさほど大差ない。庭の植木のことを考え、家族でテレビを見、母親の料理をおいしく食べる。ときには梨を売っている老人と親しくなることや、ムカデに悩まされることもあるだろう。子どもが怪我や病気をしたり、老いた母親を見送ることも。

これといった主筋があるわけではない。本作は新聞に連載されていたが、著者は自身の生活を描くという大筋のほかには拘りをもたず、悠々と毎日決められた分量を書き、書き終えたあとは翌日まで執筆のことは考えなかったという。この闊達さと、著者のあたたかな眼差しが本作の魅力だろう。飄々としたユーモア感覚もまた。

しかしただ静穏で陽気なだけの小説ではない。さきにもふれたがさり気ない叙述で人の死が扱われてもいるし、自分たちの暮らしがいつまでも今のままではないということも繰り返し述べられる。タイトルからして象徴的だ。夕べの雲は刻々とその色をその形を変えて空を流れる。少し目を離せばもう前のかたちはない。われわれの生も、夕べの雲のようなものではないだろうか。

日の暮れかかる頃に杉林のある谷間で安雄と正次郎の声が聞こえて来る。「もう夕御飯なのにいつまで遊んでいる気だ」と腹を立てながら、大浦は二人を呼びに行く。そんな時、彼はつい立ち止って、景色に見入った。
「ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風に思い出すだろうか」
すると、彼の眼の前で暗くなりかけてゆく谷間がいったい現実のものなのか、もうこの世には無いものを思い出そうとした時に彼の心に浮ぶ幻の景色なのか、分らなくなるのであった。
そこにひびいている子供の声も、幻の声かも知れなかった。


庄野氏の明るさは人生の本質的な暗さに対する洞察に支えられている、と江藤淳は述べたという。すぐれた批評ではないだろうか。限りある生をいつくしむ視点で綴られる文学は読んでいて気持がいい。そして本作は、子供のころ大好きだったテレビ番組が最終回を迎えたときの喪失感を思い出させてくれた。あれもひとつの世界の終わりだったのだろう。この世でわれわれが出会うもののすべてが、いつかは必ずわれわれのもとを去ってしまう。われわれもまた、誰かのもとから去ってしまう。


4061960156夕べの雲 (講談社文芸文庫)
庄野 潤三
講談社 1988-04

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