epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『倫理21』 柄谷行人

<<   作成日時 : 2009/02/14 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

カントに依拠してこれからの倫理のありかたを探求する。

本書で著者は倫理と道徳を区別する。倫理とは「自由であれ」という人間に与えられた至上命令に関わるものとして、道徳は共同体の規範として。「人を殺してはならない」という社会のルールがあるが、この理由は道徳の問題として解くとわかりやすい。殺人を否定するのは、そうすることで共同体のシステムの安定が守られるからだ。倫理の問題として考えると難しい。殺す自由があり、殺されない自由がある。しかしそもそも自由とは何であるのか。人は決して完全に自由ではありえないだろう。遺伝や環境に左右され、他者の欲望と情報に影響される。決断には他者(=世間)が意識される。不自由であるがゆえに「自由であれ」という命令は至上のものとされるのか。
英米系の倫理学では、自由とは、他人に危害さえ与えなければ、何をしてもよいということです。カントがそれに反対したのは、伝統的規範を重視したからではなく、そのことが別に「自由」ではないという理由によってです。自由な選択と見えるものは、実は、内的・外的な、様々な原因にもとづいている。つまり、他律的である。たとえば、私は或る物をどうしても欲しい、そして、それは私の自由な選択だと思う。しかし、これはヘーゲルが言ったことですが、欲望は他者の欲望である。私の欲望は――たんなる欲求と違って――他者が欲するものを欲すること、いいかえれば、他者に承認されたいという欲望です。すると、このような欲望が自発的(自由)であるはずがない。だからまた、欲望のままにふるまうことが自由であるはずがない。それは他律的なものです。かといって、それを伝統的規範によって抑圧することも他律的です。

社会のシステムと生命のメカニズムに縛られた人間に自由はありうるのだろうか。

さて倫理的に考えるとして、たとえば次のような場合に人はどうすべきだろう。
わが子が殺人事件を犯した。親であるあなたは世間に対して(マスメディアを通じて)謝罪すべきか否か。
著者は、親が子の犯罪について謝罪してはならないと述べる。なぜか。それは子どもが一人の独立した人格(つまり自由な主体)であることを否定することになるからだ。本人に代わって責任をとることは(他者である)親にはできない。本邦のメディアは、神戸の中学生による殺人事件のときも、連合赤軍の事件のときも、親を追い詰めた。結果、神戸の少年の父親は土下座して謝罪し、連合赤軍の一人の父親は自殺した。しかしこれは倫理的にみれば間違っているという。彼らに謝罪を強いたのは「世間の道徳」だと。なるほどとうなずけるが、しかし実践は容易ではない。われわれの社会は理よりも情のほうが勝っている場所だから。

またフロイトを引用して人間性のなかにある攻撃性についても述べる。われわれのなかにある攻撃性、それをフロイトは「死の欲動」と呼んだ。これはいかに平和的に教育しても必ず残る。また人間は合理的に行動する生物ではない。それを文学で表現したのがドストエフスキーだった。なるほど、「死の欲動」に突き動かされる人間の戯画として、彼の小説中の個性的な登場人物たちの言動には注目すべき点が多い。人間は子どもであれ攻撃的な面を備えた危険な存在だという認識をもたねばいけない(子どもは決して純真なだけの存在ではない)。


ほかにも功利主義における人間の自由について、戦争責任について、環境問題について等が述べられる。上に引用したように平易に書かれているので論理を追っていくことは困難ではない。けれども、本書の主張が実践レベルでどれほど有効であるか疑問だ。本書ではないが、たとえば高度資本主義を批判する意見の結論のひとつに、「欲望を抑制しろ」やら「スローな社会を目指せ」というのがあるが、そうなのだろうとは思い共感もするけれども、(個人レベルで)実行できるかと問われると困難を感じる。理知を実践するのは語ることよりも難しい。俗人ならばなおさらだ。
しかしそれでもいつかこの声は聞き入れられると著者は楽観的に述べるだろう。カントもフロイトも、最後に勝利を収めるのは知性だと述べた。楽観的な彼らのほうが、庶民であるわたしよりもリアリストであるのか。いずれ時が教えてくれる。

知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。

フロイト 『ある幻想の未来』



4582764711倫理21 (平凡社ライブラリー)
柄谷 行人
平凡社 2003-06

by G-Tools


中山訳カントはわたしでも読めた。本書収録の「万物の終焉」は強制される愛は愛ではないと述べていて示唆に富む。
4334751083永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)
中山 元
光文社 2006-09-07

by G-Tools


こちらも中山訳なので読んでみるか。
4334751407幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)
Sigmund Freud 中山 元
光文社 2007-09-06

by G-Tools


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『倫理21』 柄谷行人 epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる