epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『氷』 アンナ・カヴァン

<<   作成日時 : 2009/03/07 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

静謐と虚無に彩られた、恐ろしくも美しい終末のヴィジョン。

おそらくは近未来。どこかの国が秘密裡に軍事侵攻を開始し、その際に未知の核兵器が使用され、これによって極地の変容が起り、大規模の気候変動が地球を襲った。大寒波が到来して気温を下降させ、氷塊が海から陸地へと押し寄せ、世界は氷に覆われようとしていた。

語り手の「私」はこの異常気象のなか、車を走らせてある人のもとを目指す。その人はかつて彼が愛した女で、いまは他人の妻だ。彼は道に迷ったあと夫婦の家に到着するが、以前は睦まじかった彼らは今ではよそよそしく、関係が冷え切っているのが見てとれる。一夜の宿を借りて翌日になると、語り手は女の失踪を知らされる。情緒不安定な妻がいなくなって夫は安堵を隠さないが、語り手はかつて愛し、今も愛している女を捜すべく、手がかりもなしに出立する。正体不明の組織との接触のあとで、語り手は女が某国に監禁されているのを知り、潜入する。その国の指導者らしき人物「長官」は、圧倒的な力で女を支配下に置いていた。語り手は彼との接触に成功し、女と再会するのだが。

語り手は幾度か女を救出するが、彼らがともに過ごす時間は多くない。女は語り手を傲慢で非道な人物として恐れていて、語り手に心を開かない。彼に救出されたのちも、彼を恐れて自ら行方をくらましてしまう。そのたびに、語り手は国境を越えて女を捜すことになる。それは長い旅だ。ときには死線をかいくぐらなければならない。世界は死に瀕しており、瀕していながら人々は互いに争うことをやめようとせず、市民は暴徒と化し、街は荒廃していく一方だった。この終末の世界の描写はときに息苦しくなるほど陰鬱なものだ。

語り手による女の探索を縦糸に、氷によって滅亡していく世界を横糸に、小説は壮大な展開を見せる。語り手の行く先々に登場する不気味で圧倒的な威容を誇る「長官」の存在は印象深い。本書のようなディストピアを描いた小説は数多あるが、この小説が同類の小説と甚だ異なるのは、視点の複数性と強烈な幻視の叙述にある。

小説は語り手の一人称で展開する(余談だが、この小説に登場する人物たちに固有名詞は与えられていない)。この地の文にときおり、彼の視点とは別の視点からの叙述が挿入される。それは語り手が決して知りえないはずのこと(たとえば女の心理や、彼が不在の場所で起きた出来事といった)を述べて、小説世界を補完する。
もうひとつの特徴の幻視はおそらくは主人公の無意識下の描出になるのだろうが、これが何の脈絡もなく挿入され、この幻視の世界では女は語り手の前で幾度となく残虐な死を死なねばならない。この幻視はほとんど悪夢じみているものばかりで、著者がヘロインの常用者であったという伝記的事実を知ったあとでは、これは薬物による作用が影響しているのではないかと邪推したくなる。とにかく強烈なものであって、このなかで女は妙な儀式の生贄とされたり、あるいは暴徒どもに殺されたりしている。

語り手がなぜ女に執着するのか、その理由については明確には述べられない。彼はただ「彼女は私の一部だった」と述べるにとどまる。一部とはどういうことなのか。主要な登場人物は彼らのほかに長官の三人しかいない。語り手はときどき、自分と長官は同一人物ではないかと疑う。とするなら、この三人はいったい誰だったのだろう。最後のセンテンスを読み終えても、不穏の気配と疑問は払拭されない。

かつて本書はサンリオSF文庫の一冊だったが、このシリーズが終刊となったのちは、名作との評判だけで、肝心の小説は長らく入手困難な状態が続いていた。今回、サンリオSF文庫版の訳者だった山田和子氏によるほとんど改訳に近い状態での復刊が実現し、このリーダビリティの高さゆえに気持よく読み耽ることができた(バラードの『コカイン・ナイト』の訳文も素晴らしかった)。春なのに冬の雨が降る夜にうってつけの滅亡の物語。これが40年前に発表されたというのだから驚く。手垢のついた文言になるが、しかしこんなにも古びない、現代的なクラシックもそうはないだろう。一読忘れがたい。


4862381006
山田和子
バジリコ 2008-06-04

by G-Tools



『コカイン』は「病理社会の心理学」三部作の第一作。続編の『スーパー・カンヌ』は文庫化しないのか。その続編の『ミレニアム・ピープル』(だったか)はずいぶん前に翻訳中とか何かで読んだ記憶があるが、どうなったのだろう。
4102271023コカイン・ナイト (新潮文庫)
J.G. Ballard 山田 和子
新潮社 2005-06

by G-Tools


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『氷』 アンナ・カヴァン epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる