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zoom RSS 『精神科医がものを書くとき』 中井久夫

<<   作成日時 : 2009/04/30 00:00   >>

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精神科医である著者によるエッセイ集。

本書は3部に分かれていて、自らの臨床経験に基づいた医学的知見を平易な言葉で述べるT、U部と、社会問題についての独自の見解を述べるV部からなっている。主として統合失調症に関する言及が多い。精神の病気には無縁の人生で、身内にも同類しかいない人間としては、患者や病院の風景は想像もつかない。幸運なことに生来頑丈な性質なので医師のお世話になることは年に一度もない。せいぜいが歯医者くらいだ。ゆえに自分の知らない世界は広がっていて、それを知りたいがために本の頁を開くのだった。

医療は科学だろうと思い込んでいたが、著者によるとそう言い切れない余地もあるらしい。「宗教と精神医学」という章で著者はこう述べる。
一般に「不確実な事態に不確実な技術で対応する場合に呪術があり、確実に成功する技術に呪術はない」(文化人類学者マリノフスキー)。医療は明らかに前者である。方角で病院を決めても咎められることではない。医師も大手術の前には祈る。不祥事の続く病室をこっそりお祓いする。良質な抗体を得るコツはウサギに抗原を注射するとき、「よい抗体を作ってくれよな」と頼むことだとアメリカのマニュアルにあるそうである。この考えでゆけば、処方箋を患者に渡す時「効きますように」と祈りの言葉を添えるのもよいだろう。


ハリー・スタック・サリヴァンは著者が影響を受けた精神科医の一人で、彼の名はたびたび出てくる。この人物の生涯を現代のアメリカ医学界における評価の推移という観点を含めて俯瞰する「知られざるサリヴァン」の章は、この分野に一切の知識をもたぬ門外漢でも非常に興味深く読める。サリヴァンは生粋のエリートではなく、また素人性の残る精神科医であったが、たとえば彼が唱えた「人格は対人関係の数だけある」という主張は、当時は周囲を驚かせこそすれ、現在から見れば至極当然に思える。当時のアメリカの学校では被差別者である「農場の子」として生まれ、雑多な知識を独学で得、フロイトから離反したために著作の出版を阻止され、評価の低下と不況の影響で大学病院を去ったのち開業医となるこの人物の生涯は、精神医学界における功績および評価云々という問題は素人ゆえさておくとして、伝記として面白い。

ためになる、というか実用面で役に立ちそうなのは「ストレスをこなすこと」の章だ。ここでは人体のメカニズムがやさしく説明される。
生きていれば意識するとしないとにかかわらずストレスは堆積する。ストレス発散の方法は人によって異なるだろう。カラオケや、ドライブや、アルコールや。日本人のストレス処理の方法としては、男女を問わないものなら、おしゃべり、タバコ、酒、買物、賭け事だという。平凡ではあるが、「「平凡」ということは「まあまあ成功している方法」ということ」だ。
しかし人間の身には、こうした趣味レベルのものよりもっと効果的なストレス解消法が備わっている。とくに睡眠。「睡眠がしっかりしているうちは精神病は起りません」と著者は言い切る。社会人は何かと仕事に終われがちで、毎朝気分よく起きるだけの睡眠時間を確保するのも困難なときがあるだろう。様々な説が流布しているが、人間は何時間眠ったらよいのか。著者は、一日だけなら4時間でよいという。ただしその場合、翌日は普段より長く眠る必要がある。48時間で収支を合わせて、2日で12〜16時間が適当だという。いわゆる「寝過ぎ」の害は嘘で、質を量で補っているのだとも述べる。「毎日四時間でよい」とか「年をとると短くなる」というのは嘘だという。

ストレスには大きさの差があって、もっともダメージの大きいのは配偶者の死だという。次に子を亡くすこと、親の死。離婚は結婚の1.5倍のエネルギーを消耗する。不動産を動かすことは、慣れていない人間には負担が大きい。結婚や昇進などの嬉しいこともストレスになる。
人間のこころは不思議に出来ていて、肉親の死に平気で立ち会ったのが、数年後に急に悲しくなることもあるという。

また1日にも節目がある。12分と15分に境目がある。12分なら待てるが、15分になるといらいらしはじめる。
40分は小学校の授業時間で集中力の節目。
睡眠は2時間おきに浅くなる。映画やテレビ番組もだいたい2時間前後になっている。
起床後2時間は眠りから目覚めへの移行期なので精密な仕事は避けたほうが無難。午前は創造的、午後は事務的なことに適している。1時から3時は眠くなりがちで、この時間の昼寝は夜の睡眠に影響しない。4時から7時は、昔の人のいう「逢う魔が刻」で、疲労のほかに昼の生理から夜の生理への移行期。夜中の2時から3時は血液細胞をつくる大切な骨髄細胞が分裂を盛んにする時で抵抗力が下がる。……などの情報は生活するうえで参考になる。父親も弟も医師だったプルーストは医学を信用しなかったが、彼は早くに死んでいる。「逢う魔が刻」にしても「うしみつ刻」にしても昔の人の知恵にはゆえがあるのだということが知れる。


著者はまたヴァレリーやカヴァフィスの翻訳者でもある。カヴァフィスはダレルの長編の読者には親しい。

ロウソクは一本でいい。その淡い光こそ
ふさわしいだろう、やさしい迎えだろう、
亡霊たちの来る時には――愛の亡霊が。

ロウソクは一本でいい。今宵の部屋は
あまり明るくてはいけない。深い夢の心地、
すべてを受け入れる気持、淡い光――、
この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る、
亡霊たちを招くために――愛の亡霊を。

「亡霊たちを招く」



4480092048精神科医がものを書くとき (ちくま学芸文庫)
中井 久夫
筑摩書房 2009-04-08

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4622049120カヴァフィス全詩集
中井 久夫
みすず書房 1997-10

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