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zoom RSS 『贅沢な読書』 福田和也

<<   作成日時 : 2009/05/05 00:00   >>

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読書という営みのうちにある贅沢さを愉しむために。

勉強するため、情報を得るため、時間をやり過ごすための読書ではなく、享楽と呼ぶにふさわしい贅沢な時間を満喫するための読書の方法。それは読書それ自体を味わうことにあると著者は述べる。それ以外にいかなる理由もなくてよいと。食事や酒を、食べ、飲んでいるとき味わいを愉しむのと同じように、純粋に読書を愉しめばよいのだと。
読書術の本というと先日読んだ松岡正剛氏の『多読術』があるが、あちらと決定的に違うのは、本書の扱う対象が文芸書である点、それゆえテクストに寄り添うように読むことをすすめている点だ。併読にもふれていない。松岡氏の読書術は一言でいえば情報編集ということになると思うが、本書の読書術はテクストの味わいかたということになるかと思う。

それはヘミングウェイの『移動祝祭日』をとりあげた一章に顕著で、著者はここでさまざまな箇所を、ときに原文のまま引用しては、その文章の読み方を指南する。簡潔な比喩、力強い言い回し、カメラ・アイ、若さゆえの歓喜、シンプルな贅沢さ――そういったものを、ヘミングウェイの生涯のエピソードを紹介しつつ魅力的に述べていく。

二章では夏目漱石の『明暗』を近代の社会小説として紹介する。ここでいう社会小説とは、さまざまな人物が登場してひとつの世界をかたちづくっている小説の謂い。注目したいのは、近代小説の歴史とは、金銭問題の歴史だという指摘。ディケンズにしても、バルザックにしても、フロベールにしても、ドストエフスキーにしても、みな金の問題、それがいかに人間を変えてしまうかという恐ろしさや、それに振り回される人間の愚劣さというものを小説に盛り込んだ。漱石も幾度も金の問題を扱っている(彼自身、生涯金銭問題に付きまとわれた)。
『明暗』は三度くらいは読んでいるはずだが、こうして一部を引用して紹介されるとまた読みたくなる。残念なのはこの長編が未完なことだが(いまある『明暗』は漱石の構想の半分ほどだといわれる)、思うに、未完の小説を楽しめるかどうかという点にも、小説読みとして試されるところはあるように思う。
想像になるが、清子が津田を捨てたのは、彼女が、津田や吉川夫人らヘンリー・ジェイムズの登場人物的な技巧的人生に嫌気が差したからではないのかな。温泉宿で再会する清子には(この名も含めて)何か人工に対する自然というものを感じる。ただし津田やお延には新生も救済もないだろう。

三章では、旅の道連れの本としてゲーテの『イタリア紀行』とダンテの『神曲』をとりあげる。旅の思い出と本とが重なることはある。訪れる土地を舞台とした本を携えていく旅もよいだろう。太宰をもって津軽へ、川端をもって新潟へ、吉田健一をもって金沢へ、プルーストをもってイリエ=コンブレー、パリ、カブール、ヴェネツィアのツアーなんて小説同様に長い旅になりそうだが。

四章では、こんにち読みたくなる古典として『古事記』や『万葉集』をとりあげる。古典には、長く熟成させた古酒のような味わいがあると著者は述べる(本書には酒のたとえが多い)。文章によって情緒を感じさせるという点において古典にまさるものはないのかもしれない。

五章では、著者偏愛の本をいくつか。ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』、西村康彦や森銃三のエッセイなどをとりあげる。一人で酒を飲みながら読むのならエッセイがよいという著者の指摘はよくわかる。物語を離れていて、けれども文芸としての味わいがあるからだろう。本書もその一冊に含まれる。


それを行っている時間を甘美に過ごすために、贅沢とは一人よがりなものであっていい。そういえば著者には『甘美な人生』という著作もあった。気取った言い回しがやや鼻につくが、述べていることはきわめてまっとうではある。

4480422617贅沢な読書 (ちくま文庫)
福田 和也
筑摩書房 2006-09

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