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zoom RSS 『ボヴァリー夫人』 フローベール

<<   作成日時 : 2009/08/04 00:00   >>

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極上の恋愛小説。

いまさら筋を説明するまでもない、あまりに有名な小説。翻訳のバージョンが増えるのは読む側にとっては慶賀すべきこと。

エンマは非常に美貌な田舎の娘。恋に恋する年頃に恋愛小説を読みふけったせいで、いい歳になってもその後遺症から抜け出せない。彼女は、怪我した父親の治療にあたった医師シャルル・ボヴァリーに見初められ、彼と結婚する。結婚式は夜の闇のなか、灯明をともして行いたいなどと言い出すロマンチックな彼女は結婚生活におとぎ話的な空想をたくましくしていて、だから実際に夫婦となってみるとそのあまりの退屈さに驚くのだった。加えて夫となったシャルルは極めて凡庸な男で、とりたてて秀でたところもなく、妻に首ったけで、エンマとしてはただ鬱陶しいだけ。片田舎での新婚生活はいたって単調で、彼女は持ち前の空想癖を発揮してパリの社交界に遠い憧憬の目を向ける。

空想癖はやがて悪化し、彼女の目をくもらせる。近所に越してきた貴族の男にあっさり誘惑され、エンマは不倫の道をひた走る。夫とのあいだに子どもが生まれたというのに、子育てなどそっちのけで男にのめりこむ。やがて男は飽きる。飽きてこの女を捨てようとする。女は必死になってすがりつき、ついには駆け落ちなどと言い出す。男はいよいよ馬鹿らしくなって、美辞麗句を連ねた別れの手紙を書くとそそくさと女の前から姿を消す。捨てられて、女は寝込む。

エンマの馬鹿げた不倫はもう一度繰り返される。かつて近所に住んでいていまは立派になった学生と再会し、関係をもつ。官能の充足と、愛の実感がエンマを狂喜させる。けれどもその一方で、彼女の借金はどんどん膨らんでいく。不倫の恋を続けるうちに、彼女は浪費を繰り返し、やれドレスだのやれ化粧品だのと貴婦人のごとく買い込み、夫の金を湯水のように蕩尽していたのだ。夫はその間、何ひとつ気づかなかった。妻の浮気にも、散財にも。

状況は抜き差しならなくなる。とうとう自宅が差し押さえられる。凡庸で鈍感な夫は、何が起ったのか理解できずひたすらおろおろするばかり。追い詰められたエンマは毒を飲み、夫と子どもを残して死ぬ。遺品を整理していて生前の妻の浮気を知った夫は絶望して、ショックのために死ぬ。残された娘は親戚にひきとられ、製糸工場で働くことになる。

筋にしてしまえばこんなものだが、もっと短くして新聞の三面記事ふうに「不倫のあげく借金を重ねた妻、夫と子を残して服毒自殺」ともできる(『アンナ・カレーニナ』だってこんなふうに三面記事的に紹介できるだろう)。フローベールの意図は物語にはなかった。文体によって成っている小説を目指した彼にとっては、「何を書くか」よりも「いかに書くか」のほうが重要だった。言葉の問題。彼が近代小説の祖といわれるゆえんだろう。ところどころの描写は、翻訳で読んでなお美しくて感心する。結婚し、ふるさとを離れる娘の乗った馬車を見送る老人は、かつて同じ道を、今は亡き妻を隣に乗せてやって来た遠い昔に想いを馳せる。現在と過去とが二重写しになる。やさしくて甘い感傷が、老いの身をちくりと刺す。薔薇の棘のように。この場面は何度読んでも胸の奥が少しだけ痛くなる。

文体にこだわって書かれたこの小説から教訓を引き出すのはだから邪道な読みかたなのかもしれないが、恋愛とは成就するまでが楽しいのであって(恋愛においては苦しみすら喜びになる、当人は意識していずとも)、成就してしまえばあとは倦怠と憂鬱があるばかりなのだ。いみじくも小谷野敦氏が『聖母のいない国』でウォートンの『エイジ・オブ・イノセンス』を取りあげて指摘したように、相手を手に入れてしまえば恋は死んでしまうのであり、結ばれないことで恋は恋であり続ける。いとしくなつかしく思い出されるのはかつて交際した女の顔ではない。想いながら告げられないまま離れてしまった女の顔だ。それを知らなかったエンマは、己を与え、相手を得ることこそ恋であると思いこんだ。それは恋を燃え立たせるとともに恋の死を早めるはたらきをして、ついには彼女自身のみならず彼女の家庭をも破滅させた。それが彼女の望みだったのか。違うだろう。



女の携帯電話の番号が書かれた愛らしい便箋の切れ端を渡された。斜めに崩れた字で書かれた数字とアルファベットを眺めながら、かわいいお馬鹿さんのエンマ・ボヴァリーの死を思い出していた。せっかくの好意を無下にして申し訳なく、自分の不甲斐なさに呆れながらも、駅のゴミ箱に紙片を捨てた。極上の恋愛小説を読んだ者は恋愛を恐れるようになるのかもしれない。


4309463215ボヴァリー夫人 (河出文庫)
山田 ジャク
河出書房新社 2009-07-03

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4309409067聖母のいない国―The North American Novel (河出文庫)
河出書房新社 2008-06-04

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恋愛を守るために恋愛を否定する
女の携帯電話の番号が書かれた愛らしい便箋の切れ端を渡された。斜めに崩れた字で書かれた数字とアルファベ ...続きを見る
坂のある非風景
2009/08/05 02:08

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