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zoom RSS 『アラブ、祈りとしての文学』 岡真理

<<   作成日時 : 2009/09/03 00:00   >>

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著者の真摯な姿勢が感動的な一冊。

かつてサルトルは問うた。飢えた子どものために、文学には何ができるのかと。
その問いに、著者は答える。文学は他者のために祈ることができる、と。

アラブ文学の研究者である著者は、パレスチナで虐殺と自爆テロが相次いでいるさなかに文学を研究することにどれほどの意義があるのか、疑念をもったという。その疑念が出発点となって、「文学(主として小説)の可能性」が問われることになる。第一章のタイトルは「小説、この無能なものたち」。サルトルが述べたように、もはや水もパンも喉を通らぬ餓死寸前の子どもにとって小説など何の役にも立たないだろう。
しかし、その子が実際問題として文学を読めないという事実は、その子が文学を必要としていない、ということを意味するのだろうか。瀕死の床の中で小説が読めたとして、その子は遠からず死ぬ。だが、その子が死ぬことが100パーセント確実であるとして、だから小説はその子にとって無力である、いま小説を読むことがその子にとって何の意味もないと、なぜ、言えるのだろう。

こう述べたあとで、著者はアウシュビッツの収容所を生き抜いたプリーモ・レーヴィの回想を引用する。収容所のなかで希望をなくし、生きた屍と化してしまうのを防ぐために彼がとった行動は、友人のためにダンテの『神曲』の一節を朗読することだった。友人はこの朗読に懸命に聞き入る。結局彼はナチスによって殺されてしまい、実際的には文学は彼を救いはしなかったのだけれども、このエピソードには、絶望的な状況にあってなお人が文学(物語)によって生命を繋ぎとめえる、人としての尊厳を保てる、その可能性が提示されている。

どこかの国の二人の少女の姿を見たことがある。まだ年端もいかぬみすぼらしい身なりの少女は、紛争による怪我か、両目を包帯でぐるぐる巻きにしていた。何も見えない。彼女の傍らには、姉だろうか、やや年長の少女がいて、彼女が何事か語りかけている。物語を聞かせているのだ。そのお話が佳境にさしかかると、幼いほうの少女は年長の少女の手をぎゅっと握りしめる。このとき少女が聞かされたお話には、彼女の傷を癒す力もなければ、彼女を飢えや貧困から救う力もない。けれども、一心にお話に耳を傾けることで彼女のなかで何かが救われる、そういう瞬間はあったのではないか。人の生において文学は、物語は決して無力ではないはずだ。

小説はつねに遅れてやって来る、と著者は述べる。困難の渦中にあるとき、人は小説を書いたり、読んだりしてはいられないからだ。だから、苦しむ人たちの物語は、それが終わったあとにようやく書かれるようになる。ホロコーストについては書かれても、同じ規模の虐殺であるナクバについて書かれないのはそれが未だ進行中の問題だからだ。そして渦中の人たちではなく、外部の他者によって小説は書かれることになるだろう。それらは、困難の渦中にある人たちにとっては知られない出来事かもしれない。パレスチナで苦しむ人たちは、たとえば日本語によって書かれた本書の存在を知らないだろうし、ゆえに本書を読む日本人の読者などは想像もつかないだろう。けれども、たとえば管理人が本書を読み、その内容に感動するとき、困難のなかを生きるパレスチナの人々について貧しい想像力をはたらかせるとき、その行為は決して無意味ではない。それはまるで祈りのようなものだ。この地球上のどこかでいま、自分のために誰かが祈ってくれているなど、祈られたほうは思いもしないだろう。人の痛みや哀しみは個人的なもので、他者と共有などできるはずもない。しかしそれでも、そうと承知のうえでなお、祈りを奉げるほうは思わずにはいられないのだ。「あなたの痛みがこの世界にたしかに存在していることを、そして、あなたの痛みが、哀しみが、どれほどのものであったか、そのすべてを分かりはしないかもしれないけれども、でも、私はそれを分かちたもとうとしている」と。

文学のうちで小説は、言語による理解の妨げが少ないジャンルだ。本書が主としてとりあげるアラブ文学はすべて小説で、ここで紹介される小説たちの何と魅力的なこと。英米やフランスと比較したらずいぶんマイナーだろうアラブの文学を読んでみたいと思わせる、すぐれた案内書としても本書を読めるだろう。ムスリムは宗教によって生活の一切が規定されている。われわれとは異質の文化のうちにある、われわれと同じ人間たちの物語。異質な他者との出会いによって、われわれのこころは開かれていく。小説を読むことの意味のひとつがそこにある。

小説などなくても生きていける、ゆえに小説は奢侈品である、「人はいかに生きるべきか」的な青臭い文学青年めいた動機など不要だとする読書論に同調する部分もあるのだけれど、根が堅物なのか野暮なのか、小説と生のかかわりといったものをこころのどこかで期待して読まずにはいられないのが本音だ。そうした姿勢で小説と対峙してきた自分をださいと常々思っていた管理人を、本書は鼓舞してくれた。その意味でも感動的な一冊となった。
小説を読むことは祈ること、それがどんなかたちであったとしても。他者には届かない祈りであったとしても。

では、祈ることが無力であるなら、祈ることは無意味なのか、私たちは祈ることをやめてよいのか。しかし、いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、あるいは、すでに死者となった者たち、そのとりかえしのつかなさに対して、私たちになお、できることがあるとすれば、それは、祈ることではないのだろうか。だとすれば、小説とはまさに祈りなのだ、死者のための。人が死んでなお、その死者のために祈ることに「救い」の意味があるのだとしたら、小説が書かれ、読まれることの意味もまた、そのようなものではないのか。
薬も水も一片のパンも、もはや何の力にもならない、餓死せんとする子どもの、もし、その傍らにいることができたなら、私たちはその手をとって、決して孤独のうちに逝かせることはないだろう。あるいは、自爆に赴こうとする青年が目の前にいたら、身を挺して彼の行く手を遮るだろう。だが、私たちはそこにいない。彼のために祈ること、それが私たちにできるすべてである。だから、小説は、そこにいない者たち、いなかった者たちによって書かれるのだ。もはや私たちには祈ることしかできないそれらの者たちのために、彼らに捧げる祈りとして。


4622074230アラブ、祈りとしての文学
みすず書房 2008-12-20

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岡氏のこの著書もよかった。
4000264273記憶/物語 (思考のフロンティア)
岩波書店 2000-02

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