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zoom RSS 『読んでいない本について堂々と語る方法』 ピエール・バイヤール

<<   作成日時 : 2010/02/01 00:00   >>

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「読む」とはいかなる営みなのか。

世に書物の数は事実上無限ある(『本は読めないものだから心配するな』)。これらを全て読み、かつ把握することは人間には不可能だ。しかし書物は1冊1冊が単独に存在しているわけではない。ある書物はべつの書物と有機的に結びついている。あらゆる書物が鎖につながって、書物の世界を形成している。書物を単純に情報として見るならば、1冊1冊にかかずらう必要はまったくない。それよりも書物の世界全体を見通し、どの書物がどの場所のどんな位置にいるのかを把握するほうが大事だ。たとえばジョイスの『ユリシーズ』を読んだ人は世界中でどのくらいいるのか知らないが、有名だからこの小説が書物の世界でどういう位置にいるのかを知るのは容易だし(20世紀文学の傑作)内容も人口に膾炙している(『オデュッセイア』を下敷きにダブリンの1日を叙した物語で、意識の流れの手法を用い、各章ごとに叙述形式を変え、言語遊戯がちりばめられている…etc)。著者は実際の『ユリシーズ』を読んでいないそうだが、語るのにとくに問題はないと言いきる。現代はインターネットや、小説のあらすじを紹介しただけの本もある。情報を集める手段には事欠かない。ちなみに管理人も『ユリシーズ』は読んでいない。

本書は3部構成になっている。まず1部では、「読んでいない」状態について考察する。そもそも「読んだ」とはどういう場合を指すのか。最初の1行から最後の1行までを読んだ場合か。途中で流し読みした場合はどうか。拾い読みだけした場合は。目次しか読まなかった場合は。人から内容について聞かされたり、別の書物のなかで内容にふれているのを読んだ場合は。過去に読んでいるが内容を忘れてしまった場合は。これらは「読んだ」うちに含まれるのか。こう考えてみると「読む」という行為がどれだけ曖昧な営みを指すのかがわかってくる。

2部では、実際に人前で語る場合の状況について想定して、その対処方法を考察する。大勢の人の前で、教師の目で、作家を前にして、愛する人の前で。場面に応じて対処法も異なる。また、ここでは語る側の社会的立場にも注意しなくてはならない。語るのが社会的権威のある立場(大学教授など)であるばあるほどその発言はより重視されるようになるだろう。

3部では実際に人前で読んでいない本について語る場合の心がまえをレクチャーする。気後れしない、自分の考えを押しつける、本をでっちあげる、自分自身について語る…。

本書を読むと、「読む」という営みが曖昧であるのと同じように、「理解する」というのも非常に曖昧なことだとわかる。そもそもわれわれは、独自の<内なる書物>を自身の内部にもっている。これはわれわれがある本を読んだときにその読解のしかたを方向づけ、テクスト受容の際にどの部分を採用しどの部分を切り捨てるかを決定するフィルターの役割を果たす。これは各人独自のもので、彼の表象といってもよい。同じ書物を読んでもまったく異なる解釈をする人と出会うのは、それぞれの<内なる書物>が抵触するからだ。『ハムレット』はいまなお新たな解釈を生み出し続けているが、それは解釈者の<内なる書物>による産物に過ぎない。それらは『ハムレット』の影のようなものだ。これが<幻影としての書物>で、読者は『ハムレット』のテクストを受容したのち、自らに合わせて本人も意識せずにこの劇を改変してしまう。自分にとって重要な箇所は拡大され、そうでない箇所は縮小または忘却される。テクストはこの過程を経なければ読者に受容されない。こののち彼が語る『ハムレット』は彼オリジナルの『ハムレット』になるだろう。

『ハムレット』についてある人がこれは不条理の劇だといい、べつの人は狂人の妄想劇だといったとする。この場合、両者は同じ書物について話しているのだろうか。相互理解はあるのだろうか。
<内なる書物>の存在は(……)書物についての議論の空間を、不連続で不均質なものにする。われわれがすでに読んだ本と考えているものは、たとえそれが物質的にはわれわれが手に取った本と同じであるとしても、われわれの想像界によって改変された、他人の本とは関係のない、雑多なテクスト断片の集合にすぎない。

読者は各人の嗜好によって本の中身を抽出する。本を読みはじめるのと同時に忘却ははじまる。そして読み終えたあと読者に残るのは、この嗜好によって抽出された一部分に過ぎない。

本書の内容を要約すると、読書を神聖視する書物至上主義からの解放となるだろう(いうまでもなく、この要約には管理人の嗜好によるバイアスがかかっている)。著者は書物を、自分を表現するための手段と見ている。読者は、他人の書いた書物に埋没して自己を見失うのではなく、そこから自分を表現する方法を学ばなくてはいけない。「読んでいなくても、その本についてコメントすることはできる」と述べたあとで「むしろ読んでいないほうがいいくらいだ」と述べるのは極端だが、読者が書物内容のディテールに迷い込んで自己を見失ってしまうことの危険性について指摘し、書物と一定の距離をとるよう促す。あれもこれもすべての書物を読もうとすれば人生は短く、その焦りは強迫観念となり、ぜんぜん読めていないという「読書コンプレックス」を生み出す。精神の安定が失われる。そうなってまで本を読む必要などない。

「読む」という曖昧な営みは、書物と読者との「あいだ」にある。流し読みも、拾い読みも、インターネットの書評も、電車の中吊り広告も、それを目にして情報を摂取したとき、すでに読みの段階に入っている。一字一句漏らさず読むことだけが読書なのではない。本に冊という単位は存在しない(『本は読めないものだから心配するな』)。書物内容を情報としてみるとき、本書の指摘はこのうえなく示唆に富むものとなっている。だいたい、読んだそばから忘れていくのが人間ではないか。気軽に本と向き合おう。
モンテーニュならずとも、一冊読むたびにわれわれのなかで知識がひとつひとつ積木を積むように築き上げられ、果ては大伽藍を形づくるなどとはとうて思えない。本の記憶は穴だらけである。本の骨子は忘れて、奇妙なディテールだけが記憶に残っているということもある。本の赤いカバーだけを覚えているということもある。それに、各人が勝手な読みかたをするのだから、二人寄って同じ本を話題にしたところで、それが「耳の聞こえない者どうしの対話」になるのも無理はない。それでもいちおうは対話が成り立つのだから不思議といえば不思議である(バイヤールなら、そもそも人間のコミュニケーションとはそんなものだと言うことだろう)。
(訳者あとがき)


本書は情報摂取としての読書についての方法論となっている。おもに小説を主とする楽しみとしての読書については――各人が好きなように読めばよいだろう。要約ではすくいきれないところに小説を読む楽しみはあるのだから。

4480837167読んでいない本について堂々と語る方法
大浦 康介
筑摩書房 2008-11-27

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4903500187本は読めないものだから心配するな
左右社 2009-10-20

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本書にはプルーストの名がたびたび出てくる。そういえば彼も、読書が人生にとってかわることの危険性を指摘していた。(「読書について」)
4480037527プルースト評論選〈2〉芸術篇 (ちくま文庫)
保苅 瑞穂
筑摩書房 2002-11

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