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zoom RSS 『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』 サド

<<   作成日時 : 2010/02/12 00:00   >>

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美徳と悪徳の対立を扱う思想小説。

ジュリエットとジュスチーヌの幼い姉妹は両親を失い孤児になる。ジュリエットは己の美貌と才気を頼りに淫蕩に身を任せ、富豪の夫人となる。一方で純真なジュスチーヌは頑ななまでに美徳に固執し、世の中の悪徳の輩たちの犠牲者として迫害され続ける。宗教が保証する神の存在を否定し、ひたすらに現世利益を追求する悪徳と、死後に天国で神に愛されるという来世利益を心の支えとする美徳の対立が、これでもかと繰り返される変態的な性的虐待とともに描かれる。さんざん悪徳に虐待された美徳の化身ジュスチーヌは、己の生涯をジュリエットに語ったあと、雷に撃たれて死ぬ。悪徳に染まりきってはいなかったジュリエットは妹の死を目撃し、回心して修道院に入り、小説は終わる。

宗教が語る神が存在し、真に万能であるならば、人間に悪の属性を与えはしなかっただろう。悪が人間にある以上、結論はふたつしかない。神は無能であるか、悪は神の意にかなっているか。美徳に身を捧げ、善意の化身であるジュスチーヌが苦難に直面するたびに、対する悪徳の輩たちは彼女に「違反の哲学」を披瀝する。現世にあるのは強者と弱者であり、弱者は強者の犠牲になるしかない。彼女を蹂躙する悪徳の輩たちに空しい反抗を企てるも、つねに敗れるのは彼女のほうであり、正義の裁きは下されることなく、次から次へと災難に見舞われ、ついには犯罪者として刑場へ向かう身となってしまう。

ひとつの災難を逃れれば、次なる災難が待っている。悪徳の輩たちが社会的に強い立場にあるのに対して、ジュスチーヌのほうは生まれこそよいとはいえ、いまは貧しい孤児の身の上。悪徳を訴えようにも、世間は彼女ではなく悪徳の輩たちのほうを信じようとする。悪徳がのさばり、美徳は餌食にされるしかない。

ジュスチーヌの下降の物語は小説の展開として単調だ。文庫本で500頁超の長編だが、展開が読めてしまうので途中で飽きる。サドの名を聞くと連想する変態性欲の場面はふんだんにあるが、徐々にエスカレートしていくとはいえパターンが多様なわけでもなく、とくにそちら方面に関心がない人間にとっては、最初のうちは楽しく読めこそすれ、次第にげんなりしてくる。エスカレートといったところで暴力に頼れば、鞭打ちだったのが首切りになるだろうことは容易に想像がつくので、読者の意表を突くレベルにまで達していない。管理人はあまりこの分野に興味がないので、中盤の修道院の場面を読めば十分だった。森の向こうにある修道院を目指したジュスチーヌはここの神父に監禁され、同じ境遇の15人の女たちと一緒に、4人の神父たちの歪んだ性欲の捌け口とされる。尽きることない淫欲の場面は手を変え品を変え100頁を超える。趣味の問題なのでどうこういうのは無意味だが、ここを読めば後半の性的虐待の場面はもはや変奏でしかないので飛ばし読みで構わなかった。個人的には、あいのあるエスイーエックスがいちばんやらしいとおもっている。なので本書を読んでもあまり興奮しない。解説によると『ソドム120日』がサドのもっとも違反の強い作品とのこと。

人間には自然の本性が与えられているのであり、法や秩序以上にそれを尊重するのが、悪徳の輩たちが披瀝する「違反の哲学」だ。現世利益の追求こそ至上の目的であり、そのためには手段を選ばない。自身の快楽を何より優先する。死ねば天国が待っているわけではない。物質は物質に帰るまでだ。こういった主張の前に、美徳の化身であるジュスチーヌは無力だ。彼女が来世利益を説こうと、あるかないかもわからないものを根拠にする以上、論破されるのは自明のこと。
結局のところ善と悪の問題は秩序の問題になるだろう。われわれの社会が、いつ殺されたり、犯されたり、盗まれたりするかわからない物騒な場所であっては不便なので、秩序を与えるルールが必要となる。違反者が罰せられるのは共同体の安定を破ろうとするからだ。けれども全員がこのルールに従っていたのでは社会は停滞するから、違反者はつねにいたほうが、結果的に共同体は安定する。善悪とはこのバランスの問題だと思っている。身の安全がある程度は保証された社会で生きるほうが人間は便利だし、社会を離れて人は生きていけない。ルールを守るのはだから美徳悪徳の問題ではなく、自分にとってそのほうが都合がよいからというそれだけの理由に過ぎない。

本書で扱われる美徳悪徳の対立は、宗教を背景にしてこそのものだ。美徳を重んじる宗教への反逆としての悪徳の跋扈という側面はあるかと思う。しかし仮に悪徳が賞賛され美徳が異端とされる世界がもしあったら、そこでは美徳が妖しい魅力をもつようになっているだろう。美徳も悪徳も、善も悪も、光と影の問題に過ぎない。何事にも表裏はある。声高に悪徳をうたいあげることで、美徳の魅惑を知ることもあるだろう。

それはそうと、ジュスチーヌの頑迷な美徳への固執は滑稽を通り越して読者をいらつかせはしないか。小説の構成上必要だったとはいえ、彼女の愚かなまでの善意、現実を直視しない弱さは美徳の擁護者、あるいは化身としてふさわしくない。ここまで愚かであるなら悪徳の餌食となるのは必然と思えてくる。


4003259726ジュスチーヌまたは美徳の不幸 (岩波文庫)
Sade
岩波書店 2001-01

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内 容 ニックネーム/日時
神の否定は「末期の対話」により良く現れている。刑務所の長い時間の中での執筆であり、偏質狂的繰り返しは当然かもしれない。それより、個人の美徳である節約が国家の経済停滞という不幸をもたらしている美徳の不幸現象を直視すべきであろう。
hesomagari
2010/08/13 12:47

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