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zoom RSS 『フォト・リテラシー』 今橋映子

<<   作成日時 : 2010/03/25 00:00   >>

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報道写真を読む倫理のために。

われわれの日常に流通する報道写真。それらが提示する世界のありよう。限定された枠内に提示される現実は、ときに「決定的瞬間」であり、それを目にしてわれわれは驚嘆したり、感激したり、嘆息したりする。強制収容所に無造作に捨てられた屍の山。広島市上空に発生したキノコ雲。戦争によって廃墟と化した通りを、杖をつきながら歩く廃兵。それら報道写真がつきつけてくる現実をしかし、何の疑いもなく第一印象に身を委ねて信じきってよいのか。一度立ち止まり、その写真がもつ意味を問う必要があるのではないか。タイトルのフォト・リテラシーとは、写真メディアを分析、評価することと著者は定義する。

1枚の(報道)写真は、その写真が作品となって発表され人の目にふれる前にさまざまな選択を経ている。
(1)現実をファインダーで切り取る。
(2)ネガフィルムからコンタクトシートを作成し、その中から焼き付けに回す画像を選ぶ。
(3)プリント時に、トリミングなどをして、映像の構図を選択する。
(4)プリント時に用紙の種類や大きさ、濃淡や諧調などを選択する。
(5)展覧会に出品する作品の選択。
(6)写真が雑誌や写真集に掲載される時には、再び印刷工程が介在し、さらにページ内での位置や順序、キャプションの有無などを選択する。

こうした工程を経てわれわれの前にあらわれる一枚の写真を、リアルな現場として無条件に受け入れることに危険性はないのか。そもそも写真家には写真家の意図があり、一人の人間である以上はイデオロギーとも無縁ではない。それを掲載する雑誌の出版社にしてもまた。政治的バイアスから無縁でもいられない。そして見る側の人間もそうで、誰でも自分の見たいと思うものしか見ない(見られない?)。「悠久の大地インド」やら「野生のサバンナ」やら、流布する安易なイメージがはたしてどの程度まで現実と地続きであるのか。異文化表象に関する陥穽にふれた部分は、本書のうちでとくに注目すべき箇所だろう。ブレッソンにしてもユージン・スミスにしても、このオリエンタリズムから自由ではなかった。
(……)写真は世界に開かれた透明な窓ではない。それは(……)写真の技術的、流通的、文化的特性のみならず、元来全ての映像がそれである所の恣意性――撮る側、観る側の双方に実は埋め込まれている(かもしれない)世界の慣習的把握の仕方――から自由ではあり得ないからである。

異邦人として訪れた土地の風景や人々の写った写真と、実際にそこに暮らす人たちの現実は同じものなのだろうか。報道とアート、双方の特性をもつ写真(および映像メディア)は、撮る側のみならず見る側の倫理も問うだろう。
(……)写真(本書ではアートではなく報道系の写真)が、たとえそれが演出(あるいはやらせ)写真でなくとも、「現実」の直接の反映ではなく、写真家の時々刻々の選択や、写真が掲載される媒体、さらにそれを取り巻く歴史的、政治的、文化的文脈によって何らかに規定されて私たちに届く「製作物」なのだということである。そもそも「ドキュメンタリー写真」とか「報道写真」とかいう言葉自体が、一九三〇年代に定着した新しい用語や概念なのだと知れば、私たちの中で、「現場で決定的な瞬間を、演出なしに撮った写真」こそを貴重と考える慣習的思考が、たかだかこの半世紀の間に醸成されたことが実感できるだろう。


1枚の報道写真が写すものと、写せないもの。その双方を了解し、写真の向こうの人々の呼びかけに応答し続けること。これが、写真を見る側の倫理となる。報道写真を「読む」うえで大いに参考になる。

4121019466フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)
中央公論新社 2008-05

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