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zoom RSS 『黒髪 別れたる妻に送る手紙』 近松秋江

<<   作成日時 : 2010/07/24 00:00   >>

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情痴小説を三篇収録する。

収録されている「別れたる妻に送る手紙」と「疑惑」は、「別れた妻もの」連作の一部だ。妻が書生と失踪し、その行方を血眼になって探す語り手(近松)。「手紙」も「疑惑」もともに、失踪した妻に宛てた手紙の形式で書かれており、そのなかで語り手はまず自身の妻への執着をえんえん述べる。続けて、妻失踪中に知り合った女郎との馴れ初めが述べられ、この女に夢中になっていく過程が続く。若いこの女郎の身の上話を聞くとどうやら嘘ばかりのようだが、そんなところがまたいじらしくて可愛らしい。語り手は嘘を嘘と知りつつ、慰めの意味もこめて女郎の身の上話を聞いてやる。このお気に入りの女はやがて友人(正宗白鳥がモデル)にとられてしまうのだから、妻の件と併せて惨めなことこの上ない。
「手紙」の続編にあたる「疑惑」では、語り手は妻が日光に旅行した形跡があると知るや、日光中の宿屋の宿帳を独自に調査して、なんとしても失踪した妻の行方を知ろうとする。日光に旅行した確実な手がかりはなく、また宿帳を見てそれと判別できるかも怪しい、まさしく雲をつかむような話であるのにも関わらず、語り手の執念が報われたか、彼は妻が書生とともに書き込んだ宿帳を発見して興奮する。妻が誰といるのか知れれば、おのずから現在の行方も推理できる。彼女はおそらく書生の故郷である岡山に一緒にいるのだろう。「疑惑」は語り手が、妻と書生の仲は今から考えると変だったと回想したのちに、彼が岡山に向かうところで終わっている。このあとに続く続編では、岡山で妻との再会があるらしい。

痴愚といってよい男のお話であり、巻末の「作家案内」で柳沢孝子氏が述べているとおり、近松秋江の小説は「好きか嫌いか」がはっきり分かれると思われる。同時代の批評家赤木桁平は、「生命に対する何ら根本的な反省も苦悶も持たない」として近松の小説を攻撃した。これだけ駄目な男の痴話話ならいっそ撲滅したくなる気持はわかる。近松にとっては失踪した妻の行方を捜索することのほうが、文学を創作することよりもはるかに重大だった。
そして勉強するのが何だ? 勉強ということは西洋人の書いた小説を読んだり、自分でも小説を書いたりすることだろうか、それが其様(そん)なに高尚な職業だろうか、私には、それよりもお前の行先を捜すことが、生きて行かねばならぬことの唯一つの理由である。


私はその宿帳を細かに一つ一つ調べた。日光の町だけでも宿屋は二十軒の余あるという巡査の話だったから、今夜のうちに其処にあるだけは見落さないように眼を通そうと思って、自分の真面目な研究物でも調査する時のように手帳を出して一々何という宿屋は何月までは眼を通して済んだというように、表のようなのを急いで作った。自分が職業上の勉強をするよりももっと自然に熱心になれた。私に職業と云うものは何だろう? 私の飽きに飽き、疲れに疲れた生活力の衰残(のこり)はどうかしてお前が何処に行っているかを探し出そうとする一念に集っているのだ。


勤め人になってはいい加減な仕事をして、それすら長続きせず職を転々とした近松。自身が怠け者であることを承知しており、妻が愛想を尽かして出て行ったのもうだつの上がらない亭主と暮らすのに嫌気が差したからだとわかっている。失った後に躍起になって女を捜す。その愚かしい過程を小説として世間に発表する。おめでたいといえばよいのか、ちょっと理解に苦しむところがある。もとより楽しくなれるお話ではない。語り手の駄目っぷりに嬉しくなる読者もいるだろうが、このしつこい文体とあいまって管理人には鬱陶しい。

「黒髪」は別の連作の一部で、年季明けに一緒になろうと約束した商売女に手ひどく裏切られる話。語り手だけがこの裏切りに鈍感でいるのだからやはりおめでたい。実の娘にまで「わるく申せば鈍感、お人好し、もう一声で間抜け」といわれてしまう近松。思うに近松の目には女はすべて理想化された「物語の女」として映り、生身の彼女は置き去りにされていたのだろう。それは近松自身に不幸をもたらし、理想化された女の側としては迷惑なことこの上ない。そこまで痴愚となれた近松の妄想力、女への関心には感服するけれども。愚かさも極めれば偉大さに通じるだろうか。

4061975722黒髪・別れたる妻に送る手紙 (講談社文芸文庫)
近松 秋江 勝又 浩
講談社 1997-06-10

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