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zoom RSS 『受難』 姫野カオルコ

<<   作成日時 : 2010/10/04 00:00   >>

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愛と性について、ユーモラスに。

32歳のフランチェス子は幼いころに両親を失い、修道院で育てられ、現在は在宅でプログラマーをしている。女としての魅力に乏しい彼女はこの年齢になるまで性交を経験せずにきた。ある日、彼女は自身の性器にできものがあるのに気づく。このできものは人面瘡で、彼女にこう言い放つ。「こんなところに俺がいてはおまえのおまんこは使えないが、なあに、不便はあるまい。どうせだれも使っちゃくれないんだから」。フランチェス子はこの人面瘡を古賀さんと名づけ、彼女と彼? の共同生活がはじまる。

古賀さんはことあるごとに、きつく、フランチェス子のダメ女ぶりを非難する。32歳まで処女でいるというのは男を欲情させる魅力に乏しいからで、異性を欲情させることが人間の優劣と直結する恋愛至上主義的な考えかたにあってはフランチェス子のような女は明らかに女として欠陥を抱えているのだ。価値がないのだ。
女として無価値。それはどういうことか。たとえば、ある男とある女が会ったとする。たとえば、だれかからの紹介で、仕事の関係で、花屋の角でぶつかって、出張に行く電車のなかで隣の席同士になって、ある男はある女と会う。会ったときに「あ、ヤリたい」と男が思う女が女として価値があるということである。男がそう欲望すること、それが女として価値があるということである。これ以上、的確にして真実なる説明はない。「あ、ヤリたい」と思うこと。これは、ヤレるように算段することではない。ヤッている空想をしてむふふふとすることでもなく、ヤラんとして花束を贈ることでもない。実際にヤルかどうか以前に在って、しかし、「あ、ヤリたい」とおもうベクトルの超微小な発起点のことである。偽善に満ちた表現に直すと「あ、かんじのいい人だな」である。


「結局、貞節を守るような女ってのはな、貞節を、守れる、から貞節なんだ。守ってるんじゃねえんだ。守れるだけなんだ。男からセックスを望まれるような女なら貞節は守れないだろうが。女としてダメだから貞節を守れるんだ」、そう古賀さんに指摘され、非難されても、フランチェス子はもはや自身の性的魅力の乏しさを自覚しているのでいまさら傷つき、落ち込むこともない。少しかなしくはなるけれども、それでいて今の自身と生活を男受けするものに変えようなどという気にはならない。30歳を過ぎてしまえば、それまでの暮らしかたを大きく変更できるものでもないし。

やがてひょんなことから、フランチェス子は自宅の一室を男女の性交のための部屋として貸し出すことになり、この副業? を通じてさまざまな男女の嗜好を学ぶことになる。愛のあとに性があるのか、性のあとに愛があるのか。ともあれ、愛と性とは切り離せない。
エロス(=恋愛)にもありとあらゆるかたちがある。よく女は「わたしのカラダだけが目当てだったのね」と怒るけれども、目当てにされる肉体を所有していることでさいわいではないか。「きみの瞳は美しい」と「あいつのパイオツはすげえぜ」といったいどこがちがうのか。(中略)どれかが「これこそが真実の愛」などと判定できるか。

きれいごとを排除し、どこまでも直截に恋愛について述べられる。

恋愛においてわれわれは、いつだって理想の王子さま、お姫さまを待っている。いつか彼らが自分の前に現れてくれるはずだと。「そうしていつまでも、二人は幸せに暮らしました」で終わる究極的に幸福なメルヘンとしての恋愛を。おそらくはそう信じられなくては恋愛なんてする気になれないかもしれない。本作はこの幸福なメルヘンを地でいくような結末を迎える。フランチェス子はしんじつ美しい人。彼女のような人こそ幸福を享受するのにふさわしい。

たった一人きりしかいないわたしを必要としてくれる、たった一人きりの誰か。その人といつか出会えると信じて、われわれはたった一度の人生のなかで、愛から愛へ彷徨する。

4167656280受難 (文春文庫)
姫野 カオルコ
文藝春秋 2002-03

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