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zoom RSS 『切りとれ、あの祈る手を』 佐々木中

<<   作成日時 : 2010/11/19 00:00   >>

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文学と革命をめぐって、佐々木氏への5夜10時間におよぶインタビューの書籍化。

われわれは革命から来た、そう佐々木氏は述べる。本書では欧米で起こった革命について述べられるが、それ以前にまず文学についての意見がある。佐々木氏による文学の定義は広く、詩や小説を含めて哲学書等も含まれる。管理人は読書の醍醐味とは文学を読むことにあると思っているが、その理由はと問われたら、そこでは理解不可能なものを読むことが試されるからで、佐々木氏もまた本書において似た意味のことを述べている。佐々木氏は、他人が書いたものを読んでも決して理解することなど不可能であって、もしカフカやヘルダーリンが書いているものを「わかって」しまったら、われわれは正気ではいられないだろうと述べる。「うっかり理解したら大変」なことだと。本を読む者は、「書店や図書館という一見平穏な場が、まさに下手に読めてしまったら発狂してしまうようなものどもがみっしりと詰まった、殆ど火薬庫か弾薬庫のような恐ろしい場所だと感じるような」感性をまず鍛えなければいけない。

他者が書いたテクストがあり、それを読むわたしがいる。このテクストは決してわたしには十全に理解することはかなわず、永遠に溝は生じたままで、それをわがものとはできない。この他者の存在を意識する真摯な姿勢が読者には求められる。浅薄な読者はテクストと自身との距離を測れない。マルティン・ルターはひたすらに聖書を読み、そこに書いてある内容と教会の主張との差異を発見してそこから革命は起こった。時代は下り、オウム真理教の教祖は、聖書にある終末が近いと喧伝して人の不安を煽った。けれども聖書をよく読めば、終末の「その時」の到来は神の子であるイエスにもわからないとしか書かれていない。ゆえに佐々木氏はオウム真理教を「悪しき原理主義」であると述べる。

原理主義者は本を読んでいない。本が読めていない。本の「読めなさ」「読みがたさ」に向き合う勇気も力もない、惰弱な連中なんだということです。(略)テクストを読むことは狂気の業であると。本を読めば、読んでしまえば、どうしても――私が間違っているのか世界が間違っているのか、この身も心も焦がす問いに命を賭ける他はなくなると。連中は知らないのです。読めるわけがない本をそれでも読むということ、そのなかにあるテクストの異物性、その外在性、そのなまなましい他者性というものを知らない。その過酷なまでの無慈悲さを知らない。それに対する恐れを知らない。あの驚くべき「読め」という命令の狂熱を知らない。逆に、非常に自堕落なかたちで「俺が言っていることが聖書であり、俺が言っていることがクルアーンであり、俺が言っていることが仏典である」という、もう見るも無様なあり方に自足し切って飽きることを知らない。ゆえに、テクストに向き合うという残酷な体験に自らの死と狂気を賭けて身を晒すことができない。そのような奇蹟が世界であり得るということすらも感じ取れない。ゆえに、テクストというものと自分の区別がつかなくなってしまっている訳です。


他者と自身との距離を測る行為としての読書。カフカの『城』の主人公の職業が測量士であったことを思い出すと感じるものがある。

「本の読めなさをそれでも読む」という文学と革命の苦難、この本の他者性に由来する偉大なる戦いは、自分と世界とテクストが別にあるということを前提とするのです。


本を書き、それを読むことは単なる情報の摂取であってはいけない。情報とは命令である、というハイデガーの言葉を引き、そうした情報から離れようとした佐々木氏の来歴が冒頭で述べられる。あらゆる情報を排除し、何が正しく何が間違っているのか、そうしたものを手放すことで得られたものもあるだろう。管理人は、この世界はすべてが情報であると思っている。情報でしかないのだと。けれどもそうした認識に基いた読書の姿勢で、これまでの自身の本との向き合いかたでよかったのか。これからもよいのか。

本を読むことは不可能である、不可能であると言ったあとでそれでも漫然と本の頁を開いて文字を追うことは誤りではないのか。佐々木氏は多くの作家や哲学者たちが「本は少なく、繰り返し読め」という読書法をすすめてきたのに触れ、そういった文言をまた情報として処理してきた管理人は自身を振り返ってわけがわからなくなり、本棚の整理をはじめて数十冊のもう読み返さないであろう本、読まないであろう本を処分したあとでソファに寝そべり、いつもなら本を読むのにあてる時間を何もせずにぼんやりとりとめのないことを考えて過ごすのに費やした。ここ一月近くブログを更新しなかったのはろくに本を読まなかったからであり、自身のこれまでの読書は、さまざまな「偉人」の著作の一節を集めた「名言集」的な、もはやそこにあるのは摘み取られた花と同じく生命を失った無味乾燥な言葉でしかなくてそんなものを読んで何の役に立つのやら、言葉は全体のなかにあってこそ意味あるものなのに、とかねてから疑問をもっていた、そんな「名言集」を自分なりに編むのと本質的には同じことをずっと続けてきていたのではないか、その疑念がきざして、以前のようには本を読めなかった。今もまだそうだ。

本を読むことは楽しみとしてだったが、その楽しみはいまここにある欠如を埋めようとする欲求に基いていた。その欠如、その飢餓を、自分は長らく、菓子をつまむように手軽に満たそうとしてこなかったか、そういう姿勢で本を手にとってこなかったか。本書を読んで、自分のこれまでの読書について疑問を覚えたあとで、どうして安易に本を手にすることができるだろう。それが結局は商品に過ぎないとしても、では本を読む者は消費者に過ぎなくてよいのか。

本は読めない。他者を理解することが不可能であるのと同じように。わたしを理解できる他者がついに現れないのと同じように。その不可能性はしかし絶望ではなくて、希望なのだ。理解できないからこそ成立する関係があるだろう。存在する意味があるだろう。それは人間の孤独を知る助けとなるだろう。

本書の読者は、自身のこれまでの本との向き合い方を問われて、管理人のように途方に暮れるのではないか。本を多く読むこと、冊数を数えること、自分はこんな本を読んだとオンラインで告げることにどれほどの意味があるのか。読書とはつまり、自身の孤独を強くするためにあるのだ。

4309245293切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話
佐々木 中
河出書房新社 2010-10-21

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