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zoom RSS 『アリアドネからの糸』 中井久夫

<<   作成日時 : 2010/12/14 00:00   >>

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多方向にわたるエッセイ集。

いじめの構造について、本について、記憶について、阪神大震災のその後について、精神医療について、ヴァレリーの詩の構造について、ロールシャッハ・カードについて、などの文章が収められている。文学を愛好する管理人には、とくに本や翻訳や文学創作に関する文章が興味深かった。

外国語の詩を翻訳で読むことにどれほどの意味があるのか、ずっと疑問に感じていた。リルケの翻訳詩集を大事にしているけれども、そこに書かれた語の意味はつかめるとしても、リズムや語感といった音の領域においてはまったくの別物だろうと感じつつ読んでいた(詩と散文を明確に区別するのが困難である以上は広く文学一般においていえることではあるけれども、上の問題はとくに詩において顕著だと思っている)。ヴァレリーやカヴァフィスを翻訳した著者は、この問題について「詩を訳すまで」「訳詩の生理学」のふたつの章でふれている。

結論からいえば、「外国語の詩を絶対に原語で味わわなければならないということには無理がある」。なぜか。
最近の言語心理学によると、
人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後におよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一緒に「成人文法性」を獲得する。これが言語発達の初期に起こること

であって、これは成人になってからなまなかな語学の専門養成講座で身につくものではないという。そのため、成人後に習得した外国語にはどこかしら「人工物」の感が拭えない。なるほど、ある詩人は母音にイメージを見たといってこれは先鋭化した例だけれども、われわれは母国語を瞳や肌の色同様に身体的なものとして備えており、言語はリズムやイメージと無縁ではないだろう。翻訳者は母語と対象外国語の専門家だが、彼らに求められるのは語学の堪能さ以上に、翻訳対象とする作家の「文法」であると著者は述べる。ヴァレリーにはヴァレリーの、リルケにはリルケの「文法」がある。これには相性の問題も当然あるだろう。読めば読むほどよいのかというとそんなことはなくて、文章の宿命として、
一定時間内にある程度以上を反復して読書すると「意味飽和」という心理現象が起こる。つまり、いかにすばらしい詩も散文もしらじらしい無意味・無感動の音の列になってしまう。これはむしろ生理学的現象である。

ミラン・クンデラの『不滅』には、父の葬儀に流す予定の故人の好きだった音楽を、思い出や感動が消失するまで繰り返し聞き続ける女が登場する。

対象作家の「文法」を理解した翻訳者による翻訳を読むことは、原語で読むのとは異なる読書、異なる体験となるだろうけれども、それにはそれで別な意味がある。個人的には、どのみち読むということには限界がある、他人同士がついに理解し合えないように作品と読者もまた理解し合えることはなく、溝が生じたままめいめいの幻想のなかで完結する、それが関係と呼ばれるものの結論ではないのか、そう考えている。他人が書いたものがどれほど理解できるというのか。理解できるなどとは錯覚に過ぎないのであって、そんなにも容易に他人が理解できてしまえば発狂してしまうかもしれない、そういう怖ろしさが読むことのうちにはある。


文学についてもうひとつ。中井氏は「創造と癒し序説」の章で、文体の問題にふれている。
文体とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。

日本語なら語の用い方や文章のリズム、漢字やひらがなの使い方、句読点の打ち方などがその人の文体としてあらわれるだろう。これをわれわれはどうして獲得するのか。
その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけではなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模倣もある。

語り、読み、そして書くことによって、ひたすらにそうすることによって、人はいつかオリジナルの文体を獲得する。
人はいうであろう、読書が経験と相会わなければすべては虚しいと。しかし、もし相会う場所が表層であれば、それは、読者が経験を追認するという、文学消費者、つまり読者、の通常体験になるであろう。作家にいざなわれている若者も、読者として出発するのだが、経験と読書との出会いの場の少なくとも一部が、リルケが「詩人の仕事は蜜蜂のように経験の花粉を集めて蜜を作る営みである」と考えていたように、いったん言葉をこえた深層に到ることが必要条件である。「受肉」のためには意識の表層からいったん消失する必要がある。

著者は28歳のとき、突然自身の文体を獲得したのを発見したという。文体を獲得したあとはすべて書いた文章は自分のものだと意識され、反面、それ以前の文章に恥ずかしさを覚えるという(古い手紙を読み返す気恥ずかしさとは違うのか)。


文学を愛好する読者として、上で挙げた箇所をとくに大事に読んだ。著者による、ヴァレリー「セミラミスのアリア」全訳も収録。

4622046199アリアドネからの糸
中井 久夫
みすず書房 1997-08-08

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