epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『プルースト・印象と隠喩』 保苅瑞穂

<<   作成日時 : 2011/03/04 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


印象と隠喩を鍵言葉に、プルースト文学の深層を思索する。

二部構成になっている。
一部ではプルーストが(フェルメールと並んで)傾倒した画家シャルダンと作家を絡めて、作家が画家に学んだ認識について述べられる。シャルダンは18世紀フランスの画家で、彼は市民の日常にありふれたものを静物画として多く描いた。果物の入った籠、煙草入れ、台所に吊るされた赤エイ、水差しとグラス、パンとナイフ、ほかにもさまざまな、われわれの日常にもありふれている、普段何の感動もなく生活をともにしているものたち。シャルダンはそうした人の注意を引かないものに目を留め、それを深い畏敬の感情を込めて画布に描いた。シャルダンの絵を見たあとで、われわれはささやかな日常の道具がもつ美しさを知るだろう。画家によってわれわれの美的認識の領域が拡大されたのを感じるだろう。美とは高価な貴金属や衣装や大建築などのきらびやかなものにだけ備わっているのではない。美はいたるところにあり、それは発見されるべきものである、美とは対象の問題ではなく見る目の問題なのだ。

ものへの畏敬の念、このアニミズムに似た深い感情をプルーストももっていた。彼はシャルダン論を書き(それは生前発表されなかった)世俗的な生活に飽きた憂鬱な青年に語りかける結構になっている。裕福な銀行家のような暮らしに憧れている青年にシャルダンの絵を見せて目の開きかたを示し、彼が凡庸と思っていたものたちのなかにどれほどの美がしまわれているかを教えるだろう。

シャルダンの描いた日常風景の美しさはわれわれの目を新しくし、美的認識の領域を拡大する。台所の前に立ち、安物の箸やおたまや包丁やマグカップを見てわれわれは思うだろう、まるでシャルダンの絵のようにきれいだなあと。

プルーストは19世紀末の作家だった。ヨーロッパ文明が爛熟したこの時期は同時に頽廃の時期でもあった。憂鬱と倦怠の時代、人工物に構築される不健康な美への賛美、生命力と意志の衰微、堕落への憧憬――そういった凡俗な時代にあって、「プルーストは生命を甦らせることを文学の使命と心得て書き始めた作家だった」と著者は述べる。
かれは世紀末を賑わしたどんな巧緻な芸術理論よりも人間の生命への欲望、したがってその本能を尊んだ。生きている人間の感性を知性より第一義と考えた。

このプルースト像に管理人は共感する。『失われた時を求めて』のどの箇所を拾い読みしても、そのたびにもっと生きていたいという気持にさせられる。
ものがもの自体として存在する、そのことへの畏敬の念。プルーストはシャルダンから認識を学び、その認識を彼独自の言語(彼独自の文体)を創造することで小説において再構築しようと試みた。虚心坦懐にものを見、そこから受ける印象を表現する文体の模索――探求の長い年月を経たあとでようやくプルーストは小説を書き始めることになる。彼が創造した彼独自の文体は数多の隠喩に満ちたものとなる。

第二部ではプルーストの文体における隠喩(広く譬喩)の背景を探る。
なぜ隠喩なのか。前述したようにプルーストは言葉によって世界を再創造しようと試みた。
修辞学の立場から見れば、隠喩は、煩瑣なまでに細分化された数多い文彩のひとつに過ぎない。しかし(中略)表現の創造性という立場から見るとき、隠喩的な性格は、表現というものの本質を構成している。つまり、隠喩はその創造性――もっと正確にいえば対象を再創造する力――にかけてもっともすぐれた表現手段なのである。


印象派の画家たちが曇りない目で対象を見つめそれを彼ら独自の表現方法によって画布に描いたように、プルーストは彼独自の目で対象を補足してそれを言語で表現する。彼によって眠る女は花をつけた植物の茎となり、時間は竹馬となり、ひなげしの咲く野原は海となり、鈴の鳴る音は色と形をもち、少女たちの集団は光る彗星となる。例を挙げると、
われわれは柵の前でちょっと足を止めた。リラの季節は終りに近づいていた。なかにはまだ花の繊細な気泡を薄紫の背が高い釣燭台の形に噴き上げているのもあったが、しかし葉の茂みのあちらこちらでは、ほんの一週間まえにはまだ馥郁とした飛沫が砕けていたのに、黒っぽく縮んだうつろな泡が、干からびて、匂いもなく、萎れていた。


つづれ織りの壁掛けをやがていっぱいに飾り立てる田園のモチーフが壁掛けの縁にまばらに現れるように、ひなげしや矢車菊は土手のあちらこちらを花で飾っていたが、まだそれも数えるほどで、早くも村が近いことを告げるまばらな一軒家のように間を置いて咲いていて、それが、麦が波打ち、綿雲が一面に浮かぶ果てしない広がりを告げていた。


虚心の目に映った対象を言語を駆使して表現することで、プルーストは書物のなかに世界を再創造した。独自の言語、文体を用いたからといって難解なわけではなく(易しくもないが)、読者が共感できない作家ひとりに限られた異常な現象が述べられているのでもない、誰にも理解でき共感できる小説を書いたこと、プルーストの偉大さはここにあるだろう。われわれは『失われた時を求めて』を開き、そこに自身のことが書かれているのを読んで驚く。自身気づいていなかったことをどうしてこの他人は知っていたのかと。あるいは、自身が言葉にできずにいたことをこの作家は言葉にしてくれたと。それによって自身を新しく知るという体験もするだろう。プルーストのどんな繊細微妙な感覚も人間一般に共通する感覚であって、彼の天才は
他人には得られない独創を求めることではなく、他人も感じるものを一段と精確に認識する能力と、その能力をぎりぎりまで発揮させる努力

とにあった。

プルーストの長編小説には喪失のタイトルがつけられている。この小説は、年とった語り手が些細なことから彼の人生を少年時代から回想する内容になっている(といってただの回想録としては閉じず、語り手が未来を志向する開かれた最後が準備されている)。プルーストに小説を書かせたのは、過ぎ去り二度と帰らないものへの哀惜、失われていく人生の時間への痛切な意識だったと著者は述べる。彼が失われたものを執拗に追い求め、取り戻そうとあがく情熱ゆえに、われわれ読者は『失われた時を求めて』に深く感動するのだ。


以上で述べられるように著者は『失われた時を求めて』を小説による認識論と述べる。むろんそれは一面に過ぎないのであってたとえば管理人はこれを恋愛の諸相を心理的によく分析した恋愛小説として読んだ。プルーストは述べる。
「物――たとえば赤いカバーのかかった本やなにか――は、われわれがそれを知覚すると同時に、われわれのなかでなにか非物質的なものになり、そのころわれわれが抱いていたすべての関心事や感覚と同じ性質のものになって、それらとしっかり混ざり合う。むかし本のなかで読んだ或る名前はその音節のあいだに、それを読んでいたときに吹いていた疾風やきらめく太陽を含んでいる」と。一人の女に焦がれ、わがものとしたのちに訪れた別れに打ちのめされていたときに偶然この小説を読み、そこで分析される失恋と忘却のメカニズムによって慰めを得た――そんな読みかたをした管理人にとって、鈴木道彦訳の水色のプルーストはそのなかに鳴らない電話を待つ苛立ちや、自身と女をかわるがわる責めては眠れない夜と融け合っている。そしてもう何年もが経過し、そのあいだに幾人かの女たちとの交際を経たいまとなっては忘却した女でありながら、プルーストによって逆に「思い出の女」としての特性を帯びてしまったあの女の面影が連想されるから、プルーストの名を読むと未だ胸の奥が少し痛くなる。新訳が2種類刊行されたが管理人にとっては失恋の象徴というべき水色のプルーストだけがプルーストである。プルーストは管理人に記憶の呪縛も教えてくれた。

4480083790プルースト・印象と隠喩 (ちくま学芸文庫)
保苅 瑞穂
筑摩書房 1997-10

by G-Tools


4081440018スワン家の方へ 1 失われた時を求めて(1) 第1篇 (失われた時を求めて)
マルセル・プルースト 鈴木 道彦
集英社 1996-09-20

by G-Tools


4087610209失われた時を求めて〈1〉第一篇 スワン家の方へ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
マルセル プルースト 鈴木 道彦
集英社 2006-03-17

by G-Tools



新訳はどちらも訳注が頁内に収まっており、図版も掲載されていて読者に親切になっている。これからプルーストを読む人は井上訳鈴木訳も含めて4種類から選べるのはなんとも贅沢なことだ。
4003751094失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)
プルースト 吉川 一義
岩波書店 2010-11-17

by G-Tools


4334752128失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)
マルセル プルースト Marcel Proust
光文社 2010-09-09

by G-Tools


井上訳を愛する人も多いだろう。
4480027211失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)
マルセル プルースト Marcel Proust
筑摩書房 1992-09

by G-Tools

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
『プルースト・印象と隠喩』 保苅瑞穂 epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる