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zoom RSS 『そんな日の雨傘に』 ヴィルヘルム・ゲナツィーノ

<<   作成日時 : 2011/06/10 00:00   >>

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どこにも居場所はない。

述べられるのはドイツはフランクフルトらしい都市(訳者あとがきによる)をさまよう語り手の日常。
46歳。無職。彼の暮らしを支えてきた恋人は愛想を尽かして去っていった。「自分は、自分の心の許可なくこの世にいる、という気分」に憑かれた語り手。どうして自分はここにこうして生きているのか。彼はモノローグで幾度も狂気や死に言及する。いっそ狂ってしまおうか、しかしそう自覚できる狂気はまだ狂気ではなくて振りに過ぎないではないか、明晰な意識はつねに韜晦する、自身を嘲る。

語り手は高等教育を受け、かつては地方新聞の記者をしていたインテリのようだが、何があったのか、今では恋人に養われ、新品の靴の履き心地をレポートする検査員の仕事で小額の金を稼いでいる。靴を履くには外を出歩くしかない。歩けばさまざまなものが目に入る。意外なものが眠っていたはずの記憶を呼び覚まし、蘇らせるだろう。何気ない光景や人の観察、あるいは過去の想起によって「人生の面妖さ」に直面して、思いをめぐらす。少年時代や、夢破れて挫折した旧友や、昔の恋愛の顛末。おそらくは誰でも身に覚えがあるだろう、生きることのままならなさ、不可思議さを彼は面妖という語で表現する。

語り手が生きている現代のフランクフルトは生存のための競争によって成功者と失敗者を生み出す社会だ。語り手の周囲には競争に敗れた人やこの風潮に嫌気が差している人たちがいる。凡庸であることを恐れ、自分には特別な人生が用意されているのではないかという期待を抱き続けるも、歳を重ねるごとにそんなことはないのだと悟りながら、それでも期待するのを諦めきれない人間の性(凡庸であることを拒否しようとすることのなんという凡庸さ)。こうした競争の場から降りた格好の語り手は外部からこれを眺める、現代社会を肯定も否定もせず、あるがままに見る。自分の人生を綿ぼこりのようだと述べ、生きていることの違和感を拭いきれない内省的な語り手のモノローグはしばしば真面目さがユーモアに転じる。

いつの間にか部屋の隅に積もっていく綿ぼこりに人生を喩えた「人生の綿ぼこり化」もそうだが、ほかにも「単独性孤独」と「集団性孤独」だの「いまにも泣きそう限界」だの「体験プロレタリアート」だの、おかしな言葉がたくさん出てくる。これらはある状態や状況を指す造語で、名づけえないからこそ不安や恐怖を感じるのだから名を与えてしまえば安心できる。語り手や周囲の人たちは面妖な人生に造語で秩序をもたらすのだ。

「自分の人生が、長い長い雨の一日のようで、自分の身体が、そんな日の雨傘のようにしか感じられない」。
「消えたい病」の誘惑にも負けず生きていた語り手にやがて転機が訪れる。昔の職場から戻ってほしいと懇願されて職を得、さらには新しい恋人もできた。陰気で滑稽だった語り手のモノローグが、終盤では少しだけ明るくなる。雨があがりそのあとに陽光が射すように、今や彼の人生もこれまでよりいくらかは好転したのだ(それで有頂天になる語り手ではないが)。

うっかり誤って生きているという感情は、ちっぽけな、情けない、挫折の人生という想いに変じる。これもおなじみの感情だ。挫折したまま生きつづけることには慣れている。なにが起こって、どうやって抜け出したらいいかしばらくわからないのだが、そのまま行くのだ。そうこうするうちに、忽然として、新しい、第二のスタートを切っていたことに気づく。


重い内容を軽くさらりと述べる語り手に訪れるラストシーンの爽やかさに感動する。簡にして要を得た訳者あとがき
もよい。


4560090106そんな日の雨傘に (エクス・リブリス)
ヴィルヘルム ゲナツィーノ Wilhelm Genazino
白水社 2010-06

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