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zoom RSS 『ギルガメシュ叙事詩』

<<   作成日時 : 2011/06/30 00:00   >>

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始原の呼び声。

世界最古の叙事詩『ギルガメシュ叙事詩』はメソポタミア地方で成立した。ギルガメシュは紀元前2600年頃に実在したシュメルの都市国家ウルクの王。彼は死後まもなく神格化され、その英雄的行為をめぐるさまざまな伝承が古バビロニア時代(前1950〜1530年)には成立していたことが判明している。古バビロニア時代に成立した『叙事詩』は中期バビロニア時代(前1530〜1000年)を経て前一千年期に「標準版」として結晶する。訳者によると『叙事詩』は、
吟遊詩人が語り継ぐなかで自然に生起したようなものではない。総じて古代メソポタミアの文学は、はじめから作品として文書化されたのであり、それが読まれ、書き写され、改編されて、最終的なかたちをとった。


「標準版」はアッカド語(標準バビロニア語)で12の粘土板に刻まれている。アッカド語版『叙事詩』は古くから、メソポタミアから周辺地域に伝えられ、西アジアのさまざまな言語に翻訳されていった。こんにち、ヒッタイト語、フリ語、エラム語の『叙事詩』断片が残っている。それらのどれも欠損、破損しているが、他の書板との照合によって『叙事詩』の内容について知られるようになった。

『叙事詩』の基本的な構成や主題は古バビロニア時代にすでに完成しており、「標準版」はそれまでの『叙事詩』の増補改訂版であるとされる。その内容を以下に要約する。

ウルクに君臨するギルガメシュ王の暴君ぶりに国民たちは困惑していた。彼らは神アヌに王を鎮めてほしいと訴える。神アヌは創造女神アルルに命じて、荒野で粘土から野人エンキドゥを作らせる。森でけものたちと共に暮らすエンキドゥの存在を知ったギルガメシュは娼婦を派遣し、彼に抱かせる。女を知った野人は知恵を得、二足で歩くことを覚え、ウルクへとやって来る。ギルガメシュはウルクにやって来たエンキドゥと格闘し、決着がつかない。この格闘で双方に友情が芽生え、ギルガメシュは「香柏の森」に遠征し、そこの守り人フンババを打倒しようとエンキドゥにもちかける。森で暮らしていたエンキドゥは、フンババが神に等しい力をもっているのを知っており、ギルガメシュを思い留まらせようと試みるも甲斐はない。二人は「香柏の森」に向かい、太陽神シャマシュの援けを借りてフンババを撃破する。
フンババの守護神であったエンリルは守り人を殺害されて怒り、エンキドゥの命を奪う。友の死に衝撃を受けたギルガメシュは死を恐れ、永遠の命を求める旅に出る。彼は「暗黒の12ベール(120キロ)」を超え、「死の水」を渡り、かつて神の祝福により不死者となったウトナピシュティムのもとにたどりつく。ウトナピシュティムはギルガメシュに7日間不眠の試練を課し、ギルガメシュはこれに耐えられず眠ってしまう。試練に落第したギルガメシュに、ウトナピシュティムは「若返りの草」のありかを教える。ギルガメシュは草を手に入れ歓喜してウルクに帰ろうとするが、途中に泉で身を洗っている最中に蛇に草を奪われてしまう。死を克服する術を見出せず、ギルガメシュにはただ疲労と労苦だけが残される。

以上が『叙事詩』のおおまかな筋だ。世界最古の叙事詩は、死におののく人間がそれを克服せんとして果たせない、永生希求を主題とする。このなかにはまた旧約聖書で述べられる大洪水の原案とおぼしい挿話も含まれている。人間の悲願を蛇が奪うというのも、アダムとエヴァの楽園喪失の挿話に影響を与えているかもしれない。『叙事詩』の基調としてある諦観あるいは無常観は、「コヘレト書」と通じる部分が多い。「香柏の森」(香柏とはレバノン杉のこと)を制圧する挿話も、人間による自然支配の象徴として読める。また怪物退治は英雄物語の典型だ。野人が女を抱いて知恵を得るというのも興味深い。

『叙事詩』の物語を知ると人間はいまも昔も根本では変わっていないのだと知らされる。絶対的な権力を誇る王であっても死の恐怖には打ち克てなかった。わずかな望みを抱いてあてのない不死探求の旅に出る。いとしき友の死が彼に喪失の哀しみと死の恐怖を教えたのだ。しかし不死者が課した不眠の試練(死の象徴としての眠り)にあっさりと落第し――7日間の不眠に耐えられない者が永遠の死を克服できようか――若返りの草は蛇に奪われてしまう。長い旅の果てに彼が得たのは、死は逃れられない運命であるという認識、それを避けようとした試みの一切の徒労感だった。

空の空、いっさいは空。
日の下で人が労するいっさいの労苦は、
その人に何の益があろうか。

「コヘレト書」


ただし、この結末部分には年代を経て変遷があったようなのだ。古バビロニア時代の『叙事詩』では、女神がギルガメシュをたしなめる。
ギルガメシュよ、お前はどこにさまよい行くのか。
お前が探し求める生命を、お前は見出せないであろう。
神々が人間を造ったとき、
彼らは人間に死をあてがい、
生命は彼ら自身の手におさめてしまったのだ。
ギルガメシュよ、自分の腹を満たすがよい。
昼夜、あなた自身を喜ばせよ。
日毎、喜びの宴を繰り広げよ。
昼夜、踊って楽しむがよい。
あなたの衣を清く保つがよい。
あなたの頭〔髪〕を洗い、水を浴びよ。
あなたの手にすがる子供に眼をかけよ。
あなたの膝で妻が歓ぶようにするがよい。
これが[人間の〔なすべき〕]業なのだ。


この現世享楽主義的な思想が、のちに増補改訂版ともいうべき「標準版」では削られ、当該箇所で女神は多くを語らず、不死者との邂逅ののちギルガメシュが人間の有限性に直面することになるのはすでに述べた。ではなぜ「標準版」の編者はこの結末を改訂したのか。訳者は100頁に及ぶ解説の終わり近くでこう述べる。

『叙事詩』は死を超えた理想世界を描き出してみせることはない。『コーヘレト書』もまた読者を安易な超越的信仰に誘うことはしなかった。両者はともに、定かならぬ生を生きるがゆえに人生のたしかさを求め、限りある生を生きるがゆえに永遠の世界に憧れる人間の「労苦」を、それぞれの仕方で、見つめたのである。


あらゆることに終わりがある。生の果てに死がある。一切の労苦は水泡に帰し、そうであるがゆえに徒労とならざるをえない。この虚無主義こそが『叙事詩』編者の結論なのか。いや、さらに進んで、このような一切の努力が徒労とならざるをえない生の場において、そのことを覚悟して生きよと促すことこそが編者のいわんとしたことではなかったか。生きるものみなが死の鉄鎖に縛られた足を引きずりながら砂漠をとぼとぼと歩いていく。残った足跡はすぐに砂に埋れていくだろう。一切の益なき労苦を冷厳なまでに直視し、身に背負い、それこそが人間に与えられた生なのだと認識して生きていくこと――『叙事詩』はその「覚悟の促し」の物語ではなかったか。

蛇に草を奪われたあとで、
その日、ギルガメシュは腰を落として、泣いた。
頬を伝って涙が流れ落ちた。
〔ギルガメシュは言った。〕
「船師ウルシャナビよ、[わが言葉を]退け[ないで欲しい。]
何のために、船師ウルシャナビよ、わが腕は疲れきったのか。
何のために、わが心臓の血は失せ去るのか。

この嘆きを、享楽主義や信仰によって埋めるようとするのは編者の真意ではなかったのだろう。

『叙事詩』は、労苦を労苦として耐え忍ぶしかない人間の有限性をあるがままに見つめる。4000年以上も古くから死とその克服はわれわれの関心の中心としてあったのだと知られる。

4000027522ギルガメシュ叙事詩
月本 昭男
岩波書店 1996-01-30

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ギルガメシュというと深夜番組でも聖杯戦争でもなく、「ビッグブリッヂの死闘」だろう。

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