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zoom RSS 『ロマン』 ウラジーミル・ソローキン

<<   作成日時 : 2011/07/24 00:00   >>

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文学の破壊。

舞台は19世紀のロシアの小村。この故郷の駅に主人公の青年ロマンが降り立つ場面から小説ははじまる。彼は首都で優秀な弁護士として暮らしていたが退職し、画家として暮らすために帰郷したのだった。亡き両親に代わって彼を育ててくれた地主の叔父夫婦をはじめ、村の人々はみなあたたかく彼を迎えてくれる。美しい自然の景色は都会のあわただしさに疲れた彼のこころを慰めてくれる。親しい人たちとの酒宴、子どもだった彼を夢中にさせたヤマシギ猟やキノコ狩り、かつて愛した令嬢との再会といまひとたびの別離、身分の違う農民たちと一緒になってする草刈り。これらの体験と豊かな自然がロマンに故郷への愛、そして祖国への愛を自覚させる。
やがてロマンは森番の娘タチヤーナを知る。天使のように清らかで慎ましく、美しい容貌をしたこの女を一目見たときからロマンは恋に落ちる。タチヤーナも同様に彼に想いを寄せる。ロマンは彼女と結婚することを決意し、村民全員が披露宴に集まり、彼を祝福する。宴は夜遅くまで続き、新郎新婦はこの上ない幸福感に包まれて初夜の寝室へさがる。

ここから突然小説は暗転する。ロマンは新妻に自分が何をするべきかわかったと唐突に告げ、村人の一人からプレゼントされた斧を手に、祝宴に集まった人たちを次々に殺していく。冷静に、無感動に、彼は斧を振り回し、ついさっきまで幸福感に溢れんばかりだったロマンの家は今や血の海となっている。彼の傍らではやはり感情を失ったタチヤーナが、同じくプレゼントされた鈴を鳴らして夫の殺戮の供をする。ロマンは家にいた人たちを全員殺害すると外に出て、今度は村中の家を残らず襲って眠りに沈む彼らを殺していく。赤子とて例外ではなく、彼は一晩で村に住む人間を残らず斧で殺してしまう。ついにはタチヤーナも犠牲になるが、彼女は最期まで鈴を振るのをやめようとはしなかった。
ロマンの凶行はさらにエスカレートし、死体は損壊され、それらは奇妙な儀式のようなもののために教会に供えられる。ロマンは排泄物と吐瀉物の混じった教会の床のうえを転げまわるなどもはや滑稽としかいえない数々の振る舞いに及び、小説の最後に彼の死が述べられる。

伝統的なリアリズム小説の形式で述べられるのが約600頁。ロマンの凶行が述べられるのが約150頁。
トゥルゲーネフを想起させる精緻な風景描写、チェーホフを想起させる虚無的な医師とロマンとの対話、ドストエフスキー的と形容したいような爆笑を誘うサウナの場面。都会を去った主人公が村の娘と恋に落ちるという筋といい、随所で言及されるロシア、信仰、民衆の問題など著者ソローキンは本作を19世紀ロシア文学の精巧な模倣としてまず仕上げる。しかし終盤になってこれまでのリアリズム形式は突如破綻する。それまで笑いや涙を読者に見せていた感情豊かな主人公ロマン―32歳の美男子で、頭脳明晰、運動神経抜群、巨大な狼とナイフ一本で戦ってこれを殺し、焼け落ちる農家に飛び込んでイコンを救い出すといった超人的な人物として設定されていた彼――は感情の表白を失い、ただグロテスクな殺戮を実行するマシーンと化してしまう。叙述のレベルでも小説は変貌し、文章は次第に簡素化していき、最後には主語と動詞の羅列/反復となってしまう。例を引用すると、

まだ朝の眠りから覚めやらぬ耳に、振りおろされる鎌の高い響きが聞こえてくると、ロマンの心臓は高鳴った。ひんやりとした大気中に生まれ、川面に妙なるメロディーとしてたちこめるその音は、じつにじつに多くのことを約束していた――すなわち早朝の曙光、鎌の刃の下にみずみずしい音をたてて倒れながら露を輝かせる草の葉、快い肩の疲れ、百姓たちとの草原での昼食、森の中の天然の井戸までの散歩、そして最後に、乾いてゆく草のなにものにも喩えようのないにおいといったものを。


これが終わり近くでは、
ロマンは笑った。ロマンは擦った。ロマンは置いた。ロマンは触れた。ロマンはしゃぶった。ロマンは這った。ロマンは止まった。ロマンは喚いた。ロマンは落とした。ロマンはどけた。ロマンはひっ掻いた。ロマンは震えた。ロマンは置いた。ロマンは押さえつけた。ロマンは舐めた。ロマンは伸ばした。ロマンは嗅いだ。ロマンは殴った。


となってしまう。終盤の殺戮はここまで約600頁を読んできた読者を困惑させる。最後の「ロマンは死んだ」という文章を読んだとき、これまで読んできたのは何だったのかと思わざるを得なくなる。終盤の衝撃的な――人によっては激しい嫌悪感を抱くだろう――展開はそれまでの過程を転覆させる。終盤の衝撃はその内容もさることながらこれまでの展開が破壊されることによってもたらされる。

グロテスクでありユーモラスでもある終盤の殺戮に意味はあるのだろうか。ロマンはことあるごとに村人たちへの愛、故郷への愛を述懐する。死体の一部は奇妙な儀式めいたもののために利用されるとはすでに述べた。とするとロマンの行為は愛する者たちを彼なりの仕方で聖なるものへと昇華させるためになされたのだろうか。訳者は巻末の解説でいくつかの解釈を提出する。けれどもソローキンは読者を納得させる説明をロマンに一切させていない。彼は感情をなくしたかのようにただ殺戮を行うだけだ。訳者は「恐らくこのマクシマリストの作家が読者に要求しているのは、純粋な美学的な読みである」と述べている。「文学が紙の上の文字であるという立場からすれば、立体的に構成された物語空間と二次的な単文の羅列との間に、価値的な差異はない。流麗な自然描写と排泄や自慰の描写も、素材として等価なのだ(訳者)」。この「テクストの質感の差異」を読者に体験させるための試みとしてこの小説はある。中盤までと終盤の落差は大きければ大きいほど衝撃も大きくなる。終盤の効果のために中盤までの600頁はあったともいえるし、この600頁を破壊するために終盤の150頁が置かれたとみることもできる。

終盤の残虐な展開を読んで思ったのは、そこに書かれているどぎつさがあまりに単調に反復されるために滑稽の域に達してしまっているということだ。久保ミツロウの『モテキ』の1巻で、自身の黒歴史を思い出した主人公が「死にたい死にたい死にたい」と唱え続けるうちに「4回過ぎたあたりから言葉が形骸化するな」と発見する場面があるが、本作において最初には眉をひそめさせた叙述が反復されるにつれ慣れていき、次第に滑稽になり、ついには様式美まで感じさせるようになるのは新鮮な体験だった。タイトルの「ロマン」は主人公の名であるとともに小説も指しており、主人公のロマンの生と死は小説の生と死になっているようだ。管理人は本作を最後まで読んで19世紀のリアリズム小説と20世紀のアバンギャルドな小説(本作の執筆は1985〜89年)、それぞれから得られる感動を同時に得た。中盤まで溜めて終盤でひっくり返すような本作の方法に、そういう方法もあったのかと驚かされる。まさしく訳者の言葉どおり「文学における破壊とは文学の可能性の誇示」にほかならない。

終盤については嫌悪感を抱く読者もいると思われる。管理人もスプラッターにはあまり強くない。なのでこんなものはただの作り話ではないかと思ってみたら平気になったが、そうするとときに感動をした中盤までをも否定することになり、ひいては小説を否定することにつながってしまうのはおかしかった。とはいえ管理人のようにスプラッターに強くない読者こそ本作のよい読者になるのではないか。本作の「テクストの質感の差異」はそういった読者ほど強く感得するだろうから。

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