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zoom RSS 『中島敦』

<<   作成日時 : 2011/08/06 00:00   >>

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月に吠える。

「山月記」は何度読んでもその都度感嘆する。8世紀の中国、職を辞して詩作に耽る李徴は「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」のために虎に変身して戻れない。詩才に恵まれていながらそれをさらに向上させる努力を厭い、才能の不足が暴露するのを恐れる小心さのために彼は詩人の名声を得られなかった。かつては見下していたが専一に才能を磨いたゆえに今では詩人として大成した者もいるのに、李徴は何事をなすにも時は短いなどと口先でのみ嘆いて必死の努力をしなかった。虎となってしまった今になってそれがわかる、それを悔いる、けれどももはやどうにもならない。李徴の悲痛な呻きが中島の特徴である漢文調の端正で硬質な、音読を誘うような文体で述べられる。自尊心は人一倍ありながら努力するのを厭う怠惰な精神――身に覚えのない読者はどれほどいるだろう――、その告白がわずか10頁に凝縮されている。

知識への懐疑は幾つかの短篇のモチーフとなっていてそれがもっとも顕著なのが「文字禍」だ。古代アッシリア、老博士は粘土板に刻まれた文字を凝視しているうちに、それが線に解体して意味をなさなくなっていく体験をする。文字を発明してのち人は純粋に生きられなくなった、と老博士は考える。虎の文字が発明されてから人は虎ではなく虎の影を狩るようになり、女の文字が発明されてから男は女ではなく女の影を抱くようになったのではないか。文字を追えば追うほどに、その文字の示す対象から離れていくような感覚。これはホフマンスタールの不安と同じではないか。発生した出来事を文字で刻んでいく、それが記録として後世に伝えられていく、では歴史とは書き残された言葉でしかないのか。書き漏らされた文字は歴史とならないのか。文字への懐疑が知識への懐疑へ発展していく。老博士の幻視はやがて悪化し、はじめは文字を見つめているうちにそれが解体していくだけだったのが、やがて目に映るものすべてが解体し意味をなさなくなっていく。人間の生活さえもそうされていることに何の意味があるのかと問わずにいられなくなる。その懐疑とて文字によってしか表現できないという皮肉な逆説。

書くということは、どうも苦手だ。字を一つ一つ綴っている時間のまどろっこしさ。その間に、今浮かんだ思いつきの大部分は消えてしまい、頭を掠めた中の最もくだらない残滓が紙の上に残るだけなのだ。

「かめれおん日記」

この嘆きは自意識と通じていて自意識の問題は中島を骨がらみ冒していたと思われる。「山月記」で虎となった李徴はこの変身の原因を自己分析によって究明しようとする(カフカのグレゴール・ザムザは自身が虫になった原因を究明しようとはしない)。西遊記を題材にした「悟浄出世」「悟浄歎異」もこの問題を扱う。「名人伝」は自我を捨て去ることによって弓術の奥義に到達する男の物語だ。「かめれおん日記」には中島の内向が直截に述べられている。

収録されている短篇のすべてが日本以外の国を舞台としているのはこの作家の個性だろう。古代の中国や南洋の島が舞台となる。「弟子」「李陵」は有名な作品だけれど、「幸福」のような幻想譚や「夫婦」のような滑稽譚のほうが管理人には好ましい。「作家が文体で魅了せずして何で魅了するのか」とは吉田健一の言葉で、中島の文体が魅力的なのは語られることと語りかたが理想的に一致しているからではないか。

4480425128中島敦 (ちくま日本文学 12)
中島 敦
筑摩書房 2008-03-10

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