epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』 江川卓

<<   作成日時 : 2011/09/04 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

『カラマーゾフの兄弟』をより楽しむために。

世界文学の最高峰のひとつとされるドストエフスキー最後の長編をロシア文学者が謎ときする。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を自身の「総決算」として執筆した。そこには信と不信、聖性と獣性、刹那と永遠、愛と憎悪といったモチーフの対立があり、金と性の欲望をめぐるドラマがあり、神の存在をめぐる高度な議論があり、ショッキングな殺人の犯人を解明するスリルがあり、著者の自伝的挿話が書きこまれている。何度読んでもそのたびに読者を驚かせるような発見があるすぐれた小説のひとつだろう。何の知識もなく読んでも十分な感動を与えてくれる作品だが(とくに人間のこころの問題に関心がある読者には)ロシア語や、執筆当時のロシアの歴史や、著者の生涯についての知識があればより深く楽しめるに違いない。江川氏はこれらの知識を駆使してより深い『カラマーゾフの兄弟』の楽しみかたを提供してくれる。

江川氏の主張がどこまでドストエフスキーの意図であったのかを知る由はない。氏の思い込みにすぎない部分もあるだろう。けれどもそういった謎ときを誘うような魅力を『カラマーゾフの兄弟』はもっているし、この作品に興味のある読者は読めば納得するにせよそうでないにせよ、なにかしら刺激を受けるのではないだろうか。

管理人は何度か『カラマーゾフの兄弟』を読んでいて、登場人物の台詞や場面などはほぼ把握している程度の読者だ。個人的には江川氏の謎ときよりもトリビア的な知識を楽しんだ。たとえば、

@ミーチャの弁護士フェチュコヴィチには「阿呆、間抜け」の意味があり、ふつうのロシア人には「阿呆田さん」と聞こえるため、彼が最終弁論で熱弁をふるうと一種の滑稽感がかもされる。

Aドストエフスキーは最初の妻マリヤが死んだ翌日の日記に人類の究極の目的はキリストの楽園を実現することだと書いている。彼によるとこの楽園とは性交のない世界だった。

Bモスクワでの料理修行から帰ってきたスメルジャコフが、食事のときに食べ物をフォークで刺してまじまじと眺めるようになるのだが、これは当時の異端派の一派だった去勢派の習慣と同じ。

Cイワンはアリョーシャに「大審問官」の叙事詩を朗読したあと、「春に芽を出すねばっこい若葉」という語を口にするが、この言葉はプーシキンの詩からの引用。

Dドストエフスキーはかなりの子ども好きで、晩年に暮らしたスタールラヤ・ルッサ(『カラマーゾフの兄弟』の舞台)では小学校の前に佇んで子どもたちの帰宅風景を眺めていた。子どもたちの遠足にも参加していた。

ドストエフスキーは性欲を生きる力として肯定していた作家だと(何を根拠にか)思っていたのでAは意外だった。Bは(亀山郁夫氏も指摘していたが)スメルジャコフと去勢派との関連は確実なものと思った。Dのドストエフスキーの子ども好きは有名だがここまでとは知らなかった。
江川氏による謎ときとしてとくに興味深く思ったのは、

Eミーチャが見る「童」の夢で、貧しい農民たちは焼きだされて「真っ黒」になって泣いているがそれは民衆に塗炭の苦しみを与えてきたのは自分たちの階級だという認識を彼に抱かせる(「カラマーゾフ」とは黒く塗るの意味がある)。

Fイワンは野暮ったい田舎紳士ふうの悪魔と対面するが、この悪魔とはのちのイワン自身ではないのか(彼は、三十歳までは持ちこたえられるがその後は生への意欲を失うだろうと述懐している)。

イワンの見る悪魔に関してはよくわからない部分が多い。彼が陥る譫妄症はアルコール中毒の症状だが、作中でイワンが酒を飲む場面はほとんどない。江川氏はこの部分にもそれらしい解説を加えているけれども強引ではないか。

結局のところ謎ときといってもそれらが事実であるかどうかはドストエフスキー自身にしかわからない。だから事実を求める読みかたではなく、冒頭でも述べたけれどより『カラマーゾフの兄弟』を楽しむために読むべきだろう。本書を読んで、名作とは読むたびに新しい発見のある作品だという言葉の意味を実感する。専門家の指摘によってより広い視野を得られる、これは読書の醍醐味のひとつだ。『カラマーゾフの兄弟』は主人公アリョーシャの生涯を述べる二部作であり、ドストエフスキーの死のために続編は書かれずに終わった。この書かれなかった続編を亀山郁夫氏は空想している

管理人にとってドストエフスキーは特別な作家の一人であり、『カラマーゾフの兄弟』はこれまでに読んできたうちでかなり強く印象に残っている本のひとつだ。徹夜して夢中で読んだ『罪と罰』(途中で読むのが苦しくなって何度も本を閉じた)でこの作家を知り、タイトルは知っていたものの難解そうと思えた長編におそるおそる手を出し、神や信仰をめぐる論争には歯が立たないながら一語も飛ばさずに読み、ミーチャの圧倒的な存在感に打ちのめされた。現実にいる自分の周囲の人間よりも、本のなかの人物のほうが生々しいとはじめて思った。ロシア文学、ことにドストエフスキーというと登場人部tの名称が複雑で読みにくいという声をたまに聞くが、おそらくそう言う人は成人以上ではないか。十代の終わりに何の予備知識もなく読んだ管理人はしばらく読めば慣れてシステムを理解できたし、それを苦に思った記憶はない。若さには勢いがある。そのおかげで現在もあまりロシア文学を読むのは苦にならない。一時期は文学はドストエフスキーで十分だろうと――恥ずかしながら――思っていた。その後、ドストエフスキーから遠ざかる、というより嫌いになった時期があって、ようやくやや冷静にこの作家を見られるようになったころに亀山郁夫氏による新訳『カラマーゾフの兄弟』が出たのは幸運だったと思っている(ドストエフスキーは読者によって好悪がはっきり分かれる作家ではないだろうか)。けれども新訳で『カラマーゾフの兄弟』を読んだときにわかったのは、はじめて読んだときのような激しい感動はもう得られないという実感だった。はじめて読んだときは全身でのめりこむようにして文字を読んだのが、いつのころからか頭の一部で読むようになっていた。圧倒されるような小説をその後何冊も読んだけれど、十代のころの激しい感覚はもはやなくてどこか冷めている。ドストエフスキーや太宰治といった管理人がかつて夢中になった作家を読み返すとき、それをとくに自覚して寂しいような気分になる。「思い出補正」という言葉があるが、個人的な記憶もまた作品の一部として(個人的に)いつまでも残っていくものなのかもしれない。

4106004011謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)
江川 卓
新潮社 1991-06

by G-Tools

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』 江川卓 epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる